5-8 逃げられない

 はじめは重ね合わせるだけだった。頬に添えられた手の冷たさに驚いて思わず身を捩ると、それをきっかけにしてもっと深いところへと踏み込んでくる。

 息苦しさを覚えるほどに押し当てられて、互いの唇が形を変える。陽輝を受け止めながら、わたしは心を遠くに飛ばした。


 わたしの心は今、あのアパートにいる。スマホでバラエティ番組の見逃し配信を見ながら夕飯を食べている。値引きされたお刺身かな。それか失敗したカレー。もしかしたら成功した肉じゃが。あの肉じゃが、美味しかったな。


 陽輝が離れた。空いた隙間に心が戻ってくる。


 好きだよ、と囁かれる。わたしはありがとうと返す。今確かにここにある、陽輝を思う気持ちが彼に届きますように。


 陽輝の手が膝の上にあったわたしの手に重なる。彼はまだわたしにとても近いところにいた。


「今日はうちに泊まっていけば」


 心臓の温度が一度下がったような心地がした。こんなにもつま先から凍えていくのに、あばらの内側は突き破ってきそうにうるさい。

 うん、とほとんど息だけで返事をする。陽輝がシフトレバーに手を添えた。





 陽輝の部屋はとても寒かった。灯りをつけると、わたしの部屋よりも広いことがわかる。間取りだけじゃなくて、予想よりもはるかに物が少ないことにも驚いた。

 わたしが玄関でブーツを脱いでいる間に陽輝が暖房をつけてくれる。


「寒かったでしょ。なにかあったかいものでも出そうか。ああでもコーヒーしかないや」


 眠れなくなるな、という言葉に、わたしはどう返したらいいかわからなかった。洗面所で手を洗って戻ってくると、陽輝はコートとセーターを脱いでいた。


「貸して」


 わたしのコートをハンガーにかけてくれる。そのまま壁にかかったくすんだブルーのコートは、なんだか浮いて見えた。


「やっぱりなにか出すよ」

「大丈夫。気にしないで」

「じゃあ、これ」


 リビングのローテーブルの上からなにかを拾い上げる。それは透明なケースに収まったDVDだった。





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