4-13 反転

 わたしは階段に片足を乗っけた姿勢のまま首だけで振り返った。とっくに敷地を出たはずの公星くんが、わたしの足元まで戻ってきていた。


「なにかあったんですか」


 出し抜けに問われて首を捻る。


「どうしてそう思うんです」

「挨拶してくれなかったから」


 会釈はしたはずだと思って


「失礼しました」


 と頭を下げる。階段を上がろうとしたら、背後から「そうじゃなくて」と焦ったように叫ばれた。


「いつも必ず、言葉に出してくれてたから」

「ごめんなさい。ちょっとぼーっとしてました」


 気を付けますと謝罪したら、ますます困った顔をされてしまった。


「やっぱり様子がおかしいです。体調が悪いなら、おれ、ついでになにか必要なもの買ってきますよ」

「いえ。少し疲れているだけです。今日は早く休みます」

「待ってください」


 階段を駆け上がって来た公星くんが、手を伸ばす。わたしは咄嗟に手を翳していた。自らの体に明確な拒絶が走ったことに驚いて、呆然と見下ろすと、翳した手首にねじれた輪ゴムが巻き付いていた。もうぜんぶどうでもいい。


「放っておいてもらえませんか」


 公星くんが息を呑んだ。


「やっぱりなにかあったんじゃないですか」

「だけど、たいしたことじゃないので」


 大袈裟に騒ぐようなことじゃない。もう二十年近く昔のことだ。あのひとは罪を償ったはず。もしかしたら、この国に女として生まれた人間は誰もが通る道ですらあるかもしれない。


 そうして今、わたしを求めてくれるひとがいる。そのひとはとても愛情深く、わたしを大切にしてくれるひとだ。だから


「酔っているだけなんです。そんなに気にすることじゃないんです。もう、大丈夫なんです」


 重ねても、公星くんはわたしを突き放してくれない。むしろさっきよりも強く引き留められてしまう。わけがわからない。大好きなひとを拒絶してしまう心のままならさも、思うように折れてくれない彼の優しさも。いろんなものが絡みついて、全身が重たい。早く身軽になりたい。


「おれの経験上、誰かを遠ざけたいときは、孤独と不安で死にそうなときなんです」


 熱心に注がれる眼差しのあまりの真剣さに、わたしのほうが目を逸らした。





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