4-9 親心

「とにかくね、心配なだけなのよ。ありえないってわかってても、どこかでひとりきり飢え死にでもしてるんじゃないかって、不安になるのよ」

「飢え死になんて、まさか。ちゃんと食べてるよ」


 ここへ流れ着いた四月、空っぽの冷蔵庫を眺めて水だけで数日生き延びようと画策していたことは、絶対に言えない。


「せめて誰かが一緒にいてくれればいいんだけどねえ。ねえ、お付き合いしてるひと、本当にいないの? 誰かよくしてくれる男のひととか、いないの?」


 よくしてくれるって言うなら、会社のひとはみんないいひとだ。それにいちばん近くにいる男のひとは、年下だけど、とても親切だ。だけど、母の言いたいことは、当然そういうことじゃない。


「心配なのよ」


 念押しみたいに重ねられて、わたしはついに降参した。


「ひとりね、いるの。高校のときに同じ部活だった、五十嵐陽輝って覚えてる? よくうちにも来た」

「まあ」


 母の瞳がみるみる輝きを取り戻す。ああ、とか、はあ、とか、吐息とも感嘆詞ともつかない声を何度も上げて、ついには涙ぐんだ。


「そう、よかった」


 よかった、としきりに繰り返す。わたしは一瞬にして高校時代に逆戻りしてしまった。


「五十嵐くんはなんて?」


 曖昧に首を捻ってみせる。


 陽輝はなにも明確なことは言わない。ただその焦げ付くような眼差しから、喉が痛くなるほど甘ったるい匂いだけが濃く漂ってくるのだ。わたしがそれに、とうの昔に気づいていることに、陽輝も気づいている。


 周囲を煙に巻いてふたりきりの真実を隠し持っているようで、その実わたしたちもまた、巻かれている。薄ぼんやり浮かんだ輪郭を見つめて微笑んでいるだけのひとときは、心が軽くなる。ここはひどく居心地がいい。


「そう、でもね、早いうちがいいわよ。ふたりとも仕事があるし、遅れるほど産みにくくなってしまうから。そうだ、ねえ、椎名瑞希ちゃん覚えてる?」


 力なく顔を上げたわたしに、母は「今は川島瑞希ちゃんっていうのよ」と続けた。




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