4-8 9年越しの問い

「おかえり、花緒」


 換気扇の音に掻き消えてしまいそうな声をなんとか拾い上げ、慎重に答える。


「ただいま」

「いつ帰って来たの」

「三月に」

「どうして連絡してくれなかったの」

「新しい仕事とか、ばたばたしてたから」

「そう」


 そう、と母が繰り返す。


「前の会社は。だめだったの」

「うん。ちょっと。人間関係で、ね」

「今、誰か、お付き合いしてるひとはいるの」

「いないよ」

「そう」


 また、そう、と繰り返す。


「前の会社がだめだったのは、あのせいなの」


 慎重に吐き出された言葉は、きっと何年も前から、ずっと用意していたものなのだと思う。わたしはエコバッグの取っ手を握りしめながら母の横顔を見た。怯えた目をしている。


「違うよ。関係ないの」


 母の瞼が何度も細かく痙攣する。喉の奥に張り付いていた息を吐き出しながら、そう、と言った。そうしてようやく顔を上げた。わたしは、肺の中がいっそう重たくなった心地がした。


 先にテーブルについて待っていると、母が湯飲みをふたつ持ってやってきた。渡された湯飲みはまだ熱すぎて、母も口をつけようとしない。


「だけど、とりあえずよかった。帰ってきてくれて」


 わたしは水面から視線を持ち上げた。


「全然自分から連絡くれないんだもの。いつ電話してもバイトって言うし」


 学生時代、長期連休のたびにバイトで忙しいからと、母からの連絡を躱していた。


「仕事だって、大丈夫って言って。大丈夫じゃないなら、早く言ってほしかった」

「それは、ごめん。そこまでの余裕がなくて」


 これは本当。あの頃のわたしは完全に正常な思考力を失っていて、誰かを頼ろうなどとは頭の片隅にさえ過らせることができなかった。とにかく逃げることで必死だった。


「いいの、いいの。とにかく無事に帰ってきてくれたんなら、もう、いいの」


 わたしを見ながら、母が慌てたように言い募る。わたしは悲しくなった。早くこのひとをわたしの人生から解放しなければならないと強く思った高校時代のことを、強烈に思い出した。




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