4-7 実家

「ご無沙汰してます。花緒です」

「高校生以来かしら。花緒ちゃん、東京の学校に行ったんでしょう?」

「ええ」

「お仕事はどうしてるの? 向こうで就職したんじゃないのって、みんな話してたのよ」

「ええ。そうですね」

「今日はどうしたの? あ、誰かいいひとを見つけたのね。花緒ちゃんだってうちの子と同じだものね、今年で二十七……八? だものね」

「いえ。今日はそういうのじゃなくって」


 わたしが控えめに片手で制すると、そのひとはきょとんと目を丸めた。


「え、じゃあ、どうして? だって」


 心底理解できないというような声だった。空洞のような目は、わたしを警戒しているようですらあった。


 階段を上っている最中、母はずっと無言だった。


 一歩玄関に踏み入ると、実家の匂いなんてもうろくに覚えていないくせに、漠然と、懐かしい、と思った。ほとんど反射的に、香りを追いかけるように鼻から深く息を吸い込んで、後悔する。とたんに香りが重みを伴う。湯を張った浴槽に顎まで浸かっているときのような息苦しさが瞬く間に全身を包んだ。


「冷蔵庫しまっちゃうから、リビングで待ってて」


 振り返らないままに母が部屋の奥へと消えていく。背後の扉を施錠しようとした指が、一瞬停止する。お利口さんな犬のようだと思った。


「あっお茶、お茶入れないと」

「いいよ。気にしないで」

「ううん。お湯沸かすから待ってて」


 母はわたしの方を見ようとせずに、やかんを火にかけた。ちちちっと鳥の囀りのように細い音が弾ける。


「これしまっちゃうよ」


 流しで手を洗って、冷蔵庫の下に置き去りにされていたエコバッグを持ち上げる。


「うん」


 ありがとう、と言いながら、母はやかんをじっと見下ろしていた。


 冷蔵庫の扉を開けると、母の姿が隠れる。安堵のため息が冷気に紛れた。

 時折野菜室と往復して、袋の中身を移し終える。扉を閉めると、母はコンロの端に手をついたまま、じっと時を止めていた。背筋が凍る。




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