3-16 嘘
全身が強い焦燥で満たされていく。バッグから鍵を出して車両とそのひとの隙間に体を捻じ込んだ。早くこのことを彼に知らせないといけない。わたしが自転車のサイドスタンドを蹴り飛ばすのとそのひとが張り裂けそうな声を上げたのは同時だった。
「息子なんです」
眩暈がした。
「もう二年会えていないんです。せめて顔だけでも見たいんです。お願いします」
一瞬握力を失って、自転車が体の方へ倒れてくる。その重みでわたしを取り戻す。自転車に手をついたまま深く項垂れて何度も深呼吸をした。
「ごめんなさい」
それだけ言って駐輪場を出る。口の中はカラカラに干上がっていた。
アパートに戻って、テレビも換気扇もつけずにじっと過ごす。浴槽を湯が満たす音すら煩わしい。甲高く歪んだ金具の音が耳に届いて、弾かれたように玄関に向かった。
わたしがドアを開け放った音で、階段に向かっていた公星くんが振り返る。彼はふっと表情をほころばせて
「こんばんは。どうしたんですか、そんなに急いで」
「いえ、あの。少しお話したいことがあって」
一瞬、彼が時間を気にするような素振りを見せた。すぐに終わりますから、と言葉を重ねるとこちらへ戻ってきてくれる。
わたしは慎重に息を吸い込んだ。
「この間、知らない女のひとが部屋に来たことがあったでしょう」
「はい」
「あのひと、公星くんのお母様だって言ってました」
公星くんの表情が凍り付く。それから氷が溶けだすように穏やかな速度で色を失っていった。
わたしは真偽を問いただすつもりで呼び止めた。しかし彼の磨り硝子みたいに曇った瞳を見つめるうちにその答えを知る。
「知ってたんですか」
公星くんは唇を引き結んだまま目も合わせない。
「知らないひとって言ってたじゃないですか」
「会いたくなかったんですよ」
目を伏せたまま吐き捨てられた言葉は信じられないくらい冷え切っていた。
「会いたくないし、会う必要がないんです」
「一緒に、見たい派じゃ、ないんですか」
声を震わせて問うと、彼がやっと視線を持ち上げた。
「どうしてそんなこと言うんですか。おれのこと庇ってくれたじゃないですか」
ぎゅっと眉を寄せて睨みつけるみたいに目を細めている。彼にそんな目をさせたことが悲しかった。
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