3-15 知らないひと

 四月に聞いたのと同じことを問われた。


「ごめんなさい。わたしも引っ越してきたばかりで。隣のひととは、まだ会ったことがないんです」

「あ、そうですか……」


 失礼しました、とそのひとは丁寧に腰を折って、気まずそうに去っていく。丸まった背中が用水路沿いに消えていくのを見届けてからわたしも部屋に入った。


 仕事着のままベッドに体を放り投げる。わたしはきちんと彼の日々を守れたのだろうか。スマホが短く鳴る。わたしは体を倒したまま腕だけをバッグに伸ばした。指先にひっかけるみたいに拾い上げたスマホにはLINEの通知が入っている。


『助かりました』


 公星くんだった。寝返りを打ってわたしたちを隔てる白い壁を見つめる。


『お知り合いですか?』

『いいえ』


 すぐに返ってきた。


『知らないひとです』


 それからは毎朝ドアに手をかけるたびに彼女の横顔が過った。


 残業後、会社を出るともう陽は見えなかった。お腹も空いているし、さすがに今日は見回りをする余力はない。冷蔵庫が空になっていたことを思い出して途中でスーパーに立ち寄る。エコバッグを腕に掛けて駐輪場へ戻ると、車両の脇に誰かが立っていた。


 わたしと目が合うと、そのひとは深々と頭を下げた。


「先日はどうも」


 わたしは言葉を失って立ち尽くす。彼女は部屋の前で見かけたときよりも疲れた顔つきをしていた。


「偶然お見掛けして。ごめんなさい」


 わたしは震えてすらいたように思う。自転車を置き去りにしてでもこの場から走り出してしまいたかった。


「公星奏汰に、お隣の住人についてお伺いしたくて。やっぱりあの部屋に住んでいますよね」

「知りません」

「でもネットではこの辺に住んでるって出ていて、ほら」


 突きつけられたスマホの画面は遠くてよく見えなかった。だけど心当たりはひとつしかない。もう忘れかけてすらいたその存在。まさかこの期に及んでまだ更新されているというの。思わずスマホの入ったバッグに手が伸びた。


「どうしても会いたいんです」





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