3-4 推しの領域

「はむちゃん麦茶もらうね」

「また勝手に。いやいいけどさ」

「うわっ食器少な。来客用にもっと用意しておいた方がいいんじゃない?」

「いいんだよ誰も来ないから」

「来ちゃった」

れんはっ、……と、花緒さんは別だよ」


 勝手に冷蔵庫やら食器棚やらを覗いていた兎堂くんが、流れるようにわたしの方を向く。


「お姉さん、麦茶でいいですか?」


 わたしはぼうっとしていて、ポットを手にした兎堂くんの問いかけに気づかない。


「麦茶、苦手ですか?」


 公星くんの不安げな声でようやく我に返った。


「いえっ、大好きです。いただきます」

「大好きだって。よかったねー用意しておいて」


 兎堂くんが茶化す。キッチンにふたり並んで親しげにじゃれ合う様子を、わたしは呆然と眺めた。


 扉が閉まった瞬間、全身を包む香りが変わった。そのことに気づいた途端、背中から大量の汗が噴き出した。


 急転直下の事態に、わたしは玄関に縫い付けられたように一歩も動けない。呼吸すらも憚られる。早く外に出て、新鮮な空気が吸いたい。


 これ以上先には進めない。というか、進んではいけない。そんなことは許されない。お金を払わずに推しに会っているだけでも有罪なのに、彼の領域に踏み入るなんて。


「たっ、叩かれる」

「誰に?」


 兎堂くんは体をキッチンに向けたまま、首だけ振り向いてわたしを見つめていた。その肩越しに公星くんと視線がぶつかる。短く息を呑んだのは公星くんだった。


「花緒さん大丈夫ですか。顔が」

「え。溶けてますか」

「いえ。でもものすごく赤いです」

「熱中症かな」


 外暑かったもんね、と兎堂くんがコップに麦茶を注ぐ。たぶん、息を止めていたからだと思う。


「エアコンつけてるので、早くこっちに」

「いえ、わたしは」


 踵を引こうとして、酸欠で目が回る。くずおれる直前にドアに背中を強く打ち付ける。張り付くように手をついて、なんとか尻もちをつかずに済んだ。しかしその衝撃と音は存外凄まじいものだったらしい。わたしを見つめるふたりの顔が同時に青くなった。


「大変っ」


 慌てて駆け付けた兎堂くんがわたしの肩を支える。びっくりして、一瞬にして爪先まで全身が固まる。わたしはゴムになった。その隙に公星くんがわたしのパンプスを丁寧に脱がせる。


 推しに介護されている。あまりの情けなさに目の前が真っ暗になった。ほとんど兎堂くんに引きずられるようにリビングへ通される。




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