回想3-2

 耳元に小さく吹き込まれて、お兄さんの顔を見る。どこか恥ずかしそうで、それ以上に不安げな顔だった。わたしは途端に嬉しくなった。お兄さんが大きな秘密を教えてくれた。だけど急激に上向いた気分が、そっくりそのまま反転する。


 先生。それはとても魅力的なお仕事。女のひとはお仕事よりも赤ちゃんが好きだけど、男のひとは違う。


「花緒ちゃん」


 わたしの方が不安な顔をしていたら、お兄さんが首を傾げた。


「先生になったら、もう花緒とは一緒にいてくれなくなっちゃうの」


 お兄さんはうーんと難しい顔をして、だけど「そんなことないよ」とは言ってくれなかった。わたしの不安がはっきりと輪郭を持って膨らんだ。


「どうしてそう思うの」

「だって、お父さんもお母さんも花緒よりもお仕事が好きだから」

「そんなことないよ」


 被せるように言われて、わたしの胸に浮かんだのは悲しみよりもむしろ怒りだった。さっきは言ってくれなかったくせに。


「嘘吐き」

「嘘じゃないよ」

「会ったこともないのにどうしてわかるの」

「そういうものなんだよ。俺は花緒ちゃんより大人だからわかるんだ」

「ずるいよ、そういうの」

「ずるいって?」


 大人と子どもって線を引いて突き放すこと。欲しいときに欲しい言葉をくれないこと。なのに初めて会ったときからずっと、わたしが欲しくてたまらなかったものを飽きるほどに与えてくれること。


 わたしがどんなに一生懸命か、お兄さんは知らない。だから簡単にわたしを置いてどこかへ行ってしまう。それじゃお母さんたちとなにも変わらない。


「お兄さんだって花緒よりもうどんが好きなくせに」


 唇の先で吹き付けるみたいにそう言ったら、お兄さんはお腹を抱えて笑った。


「なんだ。やっぱり遅れてきたから拗ねてたの」

「拗ねてないもん。そこまで子どもじゃないもん」


 お父さんもお母さんも、花緒は手がかからなくていい子だね、と口癖みたいに言う。近所のおばさんも、わたしやお母さんが羨ましいと言っていた。うちの子はやんちゃで困っちゃうわ、と話すおばさんは、なんだか楽しそうに見えた。


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