1-15 わかってほしい

 意外なことに、数日経っても公星くんが引っ越す気配は感じられなかった。


 てっきり気味悪がって逃げられてしまうと予想していたから、わたしの方が落ち着かなくなってしまう。あの夜、わたしは二度も彼を失うのだという喪失感と、わたしが彼の平穏を脅かしてしまったという罪悪感に苛まれて眠れなかったというのに。


 公星くんはどうしてこの場所を離れようとしないのだろう。


 陽がどっぷりと沈んだ頃に帰路へついた。用水路沿いの桜並木を潜り抜けてしばらく歩くと、ようやくアパートが見えてくる。ところどころ泥が垂れたみたいな線が走る、元は白かったであろう煤色がかった外壁。


 芸能人ってみんないい家に住んでいるのだと根拠もなく想像していた。だけど現実には、一生手の届かない存在だと認識していたはずの推しが、わたしと同じ間取りで、同じ家賃を支払って生きている。


 わたしと公星くんが。

 まったく違う生き物のはずなのに。


 アパートに到着すると、上階から金属の歪な悲鳴が降って来た。間もなくして階段を一歩降ったそのひとと視線がぶつかって、互いに目を瞠る。


 わたしが反射的に会釈をすると、公星くんも律儀に同じ動作を返してくれた。けれど直後には視線を逸らされて、逃げるみたいに足早に階段を下ってくる。

 避けられているのだとはっきりわかった。


「あのっ公星く……さん」


 すぐ隣を通り抜けようとした背中を咄嗟に呼び止める。


 公星くんはびくりと体を強張らせてから、機械仕掛けみたいにぎこちない動作で振り返った。


「あの、信じてもらえないかもしれないんですけど、あのサイトに投稿したの、わたしじゃないです」


 公星くんは訝しむように視線を留めたまま小動ともしない。大きな黒目でじっと見つめられて、わたしはたちまち呼吸の仕方を忘れてしまう。

 推しと対面して正気でいられるオタクなんて存在するもんか。




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