1-7 お願い
「はい?」
「ここではわたしのこと苗字で呼ばないでもらえますか」
「えっと」
「できれば下の名前で……花緒って呼んでほしいんです」
「え。い、や……それは」
公星くんが目を泳がせる。それから「どうしてです」と尋ねた。
迂闊に口を滑らせるには、この街で香住という名はあまりにも知られすぎている。さっき名乗らなかったのもそのせいだ。どこにかつてのわたしを知っているひとが潜んでいるかわからない。
「どうしても、苗字は、ダメで……」
だけど音に乗せられたのは、そんな拙い気持ちだけだった。
これじゃ彼に伝わりっこない。ちゃんとひとつずつ紐解いて、伝えなきゃいけないのに。わたしはいつも、大事なところでちゃんとできない。
息苦しさを覚えて、財布を持ったままの手を胸元に押し当てる。肘を抱くと、うっすらと震えていた。早く消えてしまいたい。
「……わかりました」
降り注いだ声に恐る恐る顔を上げる。怯える子供を慰めるようなぬるい温度の満ちた眼差しで、公星くんがわたしを見つめていた。
「花緒さん」
まだ迷いの残る、けれど優しい声。わたしの好きな声。
初対面でこんなお願い、意味がわからなくて気持ち悪いに決まってる。なのに公星くんはあっさりと受け入れてくれた。彼の優しさを搾取したみたい。罪悪感が胸に溢れた。
わたしの知る公星奏汰くんは、舞台上では誰より眩しく輝いていて、普段は穏やかな微笑の似合う優しい男の子。そう、わたし、彼の優しさを知っているの。客席から、画面のこちら側から、ずっと見てきたから。
それはけしてわたしに向けられるはずのないものだった。今、その重みを知った。重たくて、息苦しい。
──花緒ちゃん、可愛いね。
鼓膜の奥で響いたぬるい声音で、小学生時代の夢を見ているのだと悟った。夢と知っても意識が覚醒する気配は見えない。むしろ二十八歳の自我が十歳のそれに吞み込まれていく。
「恥ずかしいよお」
夢の中でわたしが呟く。夢? 違う、これは十歳の記憶。
わたしはまたあの日を追体験している。
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