1-6 挨拶
はい、よーく存じ上げています。とは言えず、わたしはぎこちない会釈を返した。
距離が離れたせいで公星くんがやや声を張っているため、周囲の目が自然とわたしたちに向けられるのがわかる。こんな所で元舞台俳優のスキルを発揮しなくてもいいのに。声、久しぶりに聞いた。やっぱり好きだな。
冷静に状況を俯瞰しようとする理性の隙間に、余計な感情が入り込んでくる。
強いお酒を飲んだときみたい。眩暈を覚えるほどの熱がわたしの眼差しから、呼吸から迸る。本能に、抗えない。
「あー、お隣さん……ですよね。あれ、もしかしておれ、間違えてます?」
「あっはい。じゃなくていえ、合ってます。お隣さん……です、はい」
「ああ、ですよね……えっと、よろしくお願いします」
公星くんのお手本みたいなお辞儀と、へこっと腰の引けたわたしの会釈が対照的で恥ずかしい。耐えられなくて「じゃあ、失礼します」と早口で告げて踵を返した。
「
背後からよく通る声で呼び止められる。彼の美声に振り向いたのはわたしだけではなかった。
公園中の親子連れが揃って公星くんに視線を投げて、次いでわたしを捉える。集中砲火みたいに浴びせられる視線。不穏な色を孕んだそれを敏感に感じ取ったわたしは、咄嗟に公星くんに駆け寄り彼のシャツを摘まんで引いた。
「ちょっちょっとあの!」
「なん、なんですかなんですかなんですか!?」
公星くんがわかりやすく狼狽える。当たり前だ。つい数秒前まで、わたしは電池切れみたな状態だった。それが突然息を吹き返して襲い掛かってくるなんて、普通にホラーだ。
だけど公星くんは逆らわない。ほとんど無抵抗にわたしに連行されていく。遊具の影に雪崩れ込んで、周囲の目からふたりを隠した。
「ごめんなさい、免許証見て、名前、」
「それはいいんです」
焦った様子で弁解する公星くんを押し留める。
さっきまであんなに夢見心地だったのに。体の内側に灯っていたはずの熱はその余韻すら見えない。
遊具の影から顔を僅かに覗かせて周囲の様子を探ってみた。もう誰もわたしたちを気に留める気配は見つからない。それでも、拭いきれない不安と焦燥がわたしの口を滑らせる。
「あのわたし、二〇三号室の香住花緒と申します」
「えあ、公星です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「あの、香住さ」
「苗字」
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