1-5 本物
あの一件以来、胸が高鳴ることなどただの一瞬もなかった。それは心にぽっかり穴が開くなんて表現じゃ物足りなくて、心臓を引っこ抜かれるような乱暴さに満ちた空虚。
なのに今、胸の内が熱くてたまらない。
あの日引っこ抜かれた心臓が戻ってきた。
「お財布、落としましたよ」
控えめに差し出されたのはターコイズが鮮やかな長財布。──あっ。息を呑んで手元を見下ろすと、スマホと一緒に抱えていたはずの財布がない。動揺しすぎて落としたものを、公星くんがここまで届けに来てくれたのだ。
羞恥とも罪悪感ともつかない感情が込み上げた。
「あ、ごっごめんなさい」
「……あの、なんでじわじわ離れていくんですか?」
ごめんなさい、限界なんです。
なにを隠そう、わたしは推しと接触ができないタイプの厄介なオタクだ。これまで公星くんの出演する舞台やライブに現地参戦することはあれど、握手会などの直接接触するタイプのイベントはすべて避けて通って来た。
お渡し会はレポを検索して片っ端から『いいね』。カレンダーは通販で購入したものを飾ってにやにや見上げる。アクスタかトレカで記念撮影して満足する。そういうどこにでもいる気持ちの悪いオタク。本人に見られなければ、それでも構わないと思っていた。なのに。
こんなことになるなら、耐性をつけておくべきだった。
受け取った財布を胸元で抱えてじわじわとベンチから距離を取る。公星くんは無理にわたしを追おうとはせずその場に留まった。優しい。好き。
「あの、おれ、二〇二号室の公星です」
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