1-3 再会

 テレビの設置が終わった頃にちょうど正午を迎えた。スマホと財布を剥き出しのまま携えて玄関へ向かう。


 ドアノブを掴んで、体の動きが停止する。動悸が速まって、季節外れの汗が滲み出す。どれもわたしの意思とはほとんど無関係に、半ば本能的な反応だ。


 大丈夫。なるべく人目につかないよう早く帰ってこよう。


 言い聞かせるうちに指先が温度を取り戻していく。意を決して扉を開け放つと、たちまち春の陽気が室内へ流れ込んでわたしの髪を掬い上げた。


 通路から用水路沿いの桜並木が見下ろせる。扉を施錠して、今度は通路から身を乗り出すようにして一直線に伸びる春色に見惚れた。


 知っているようで知らなかった故郷の景色。九年前はこんな場所があるなんて想像すらしなかった。


 心臓の辺りにちくりと疼痛が走ったと同時、隣室──二〇二号室の扉が開く気配で振り返る。薄く開いた扉の影に人間の輪郭を認めた瞬間、反射的に財布で顔を隠した。


 財布越しにわたしの存在を認めると、隣人もわたしに倣うようにして手のひらで顔をさっと隠す。白い不織布のマスクをしたそのひとの瞳を視界に映して、わたしは息を呑んだ。


 ひゅっ、と、無意識の内に喉から情けない音が漏れる。


 マスクや手のひらで隠そうが、見間違うはずがない。


 失踪したはずの推しが、手を伸ばせば触れられる距離に現れた。

 待って。


「えっ」


 一瞬にして挙動不審に陥る。そのひとが動揺した一瞬のうちに、わたしは弾かれたようにその場から逃げ出していた。


 胸を占めていたはずの感慨を玄関前へ置き去りにして、一心不乱に桜並木に沿って駆け抜けた。


 うそ、うそうそうそうそなんで。


 真っ白な頭で走り続ける。限界は突然訪れた。呼吸が続かなくなって、近くの公園に覚束ない足取りで避難する。

 よろよろと倒れ込むようにしてベンチに腰を下ろし、酸欠でうまく回らない頭で必死に状況の整理を試みる。


 公星きみほし奏汰かなたくん。


 2.5次元舞台を中心に深夜ドラマ等でも活躍する、人気急上昇中の若手俳優。T県出身の今年で二十四歳。


 三か月前に芸能界を引退したわたしの推し。もう二度と顔も見られないと思っていたわたしの希望。


 その彼が、隣の部屋からひょっこり出てきた。




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