第1章 不時着
1-1 エスケープ
推しが失踪した。
十八歳から在籍していた事務所を退所して、SNSを消して、ほんの些細な面影すら欠片も残さず、余白の多いPDF一枚で彼は芸能界を引退した。
推しはもうわたしたちの目の届かない世界へ至っている。生きているのか死んでいるのかすら判然としない。こんなのもう、ほとんど失踪だ。
同時にわたしの中でなにかが断ち切れた。それはたぶん、わたしと社会をつないでいたか細い糸だったのだと思う。引退発表のふた月後には都内のワンルームを解約して、懐かしい田舎へと舞い戻っていた。
差し込む陽だまりで意識が浮上する。
レースカーテンすら取り付けられていない剥き出しの硝子の向こうで、春先の柔らかな陽光が眩しい。
朝だ、とわかった。体内時計によってではない。けたたましく鳴り響いて止まないアラームのおかげだ。
先月まで、わたしは会社に勤めていた。おかげで労働から解放された今でも無駄な早起きが癖になっている。それは体調を崩していた期間も同じで、ベッドから降りることすらままならないのに律儀にアラームをかけ続けるわたしはひどく滑稽で、いっそ健気ですらあったと思う。
今、わかる。わたしは、正しくあろうとしていた。
決定的に壊れながらも、見放されることを恐れて、指先ひとつで崖っぷちにぶらさがっていた。
そんなふうに足掻いてみせても、結局いちばん忙しい時期に突然休職し、雪崩れを起こすみたいに会社を去ったわたしのことを、同僚たちは恨んでいるかもしれない。
スマホの画面を指の腹でぺちぺちと叩いてアラームを停止させる。表示された日付は四月一日。世間では嘘を吐いても許される日として有名な日だ。わたしが先月去った会社に新卒で入社したのも、ちょうど五年前の年前の今日だった。
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