15.ザ・フェイバリット(4)
「最近、小神野がお前に絡まなくなったな。何か言ったのか?」
千葉中央分室前の廊下で、蓋つきの缶コーヒーを飲みながら矢蕗が言った。おとり捜査と尾行続きでだいぶ疲れた顔をしている。
「小神野さんより俺が先に昇進しますねと言っただけです。でないとパワハラになりますよって」
しれっと泰河が言うので、呆れたようにため息をついた。
「お前、そのうち刺されるぞ」
「いいですよ、別に」
「……お前が言うと本気に聞こえる」
「光栄です」
「そうやってシマノも落としたのか?」
「聞いただけですよ。どうして売人なんてやっているのか、その理由を聞いたんです」
「理由?」
「ええ。薬物のことは話したくなくても、自分のことなら誰だって話したいものでしょう?」
「そんなものかな」
「矢蕗さんは謙虚だから」
「笑わせるなよ。俺はただ、ことなかれ主義なだけだ」
「おかげで助かっていますよ。矢蕗さんみたいな人はこの職場で貴重だ」
「そりゃそうだ。みんな、癖が強すぎる」
「矢蕗さんが麻薬取締官になった理由、聞いてみたいですね」
「俺? なりゆきだよ。友達と運試しで採用試験を受けたら俺だけ受かったんだ。いまでもなんで合格したのかわからない」
矢蕗は窓枠に背を預け、天井を仰いだ。
「仕事ってのは不思議なもんだよな。皆から向いているともてはやされる人間がすぐに辞めたり、俺みたいなのが案外長続きしたりする」
「それはわかります」
ところで、と泰河が本題に入った。
「いま追っている案件なんですが……」
「聞きたくない」
矢蕗は両手で耳を覆う。
「俺は違法捜査の片棒は担がないぜ。見ざる言わざる聞かざるだ」
「おやおや」
「お前、レザーも引っぱり込んだろう。若者に道を踏み外すようなことをさせるなよ」
「俺なんかより彼の方がよほど修羅場を知っていると思いますけどね。レザーが契約している民間軍事会社のライランズ・グループ社に照会してみたんです。16歳から現地で仕事をもらって、大人顔負けの働きぶりだったそうですよ。危険度の高い
「現地でって、彼はイラン人だろ」
「そうです。もっと正確にいうならば、イラン人の中でもペルシア語を母国語とするファールスィー」
「雇われてたのはどこでなんだ。イランが戦争してたのはもうずっと前の話じゃないか、まさか」
「ご想像通り、隣国のイラクですよ。はるか太古の昔に栄華を極めたバビロニアが夢の跡。当時、現地に派遣されていた米兵の紹介だったとあちらの警備部長が教えてくれました」
泰河は腕を組み、矢蕗の隣に並んで壁に背を預ける。
「仕事は一流。ただ、仲間との折り合いはよくなかったそうです。2か月前にも揉め事が起きてチームリーダーが死んでいる。環境を変えたらマシになるんじゃないかと、日本送りになったそうです」
「なんだそれ、仲間に死人が出てるとか不穏だな」
矢蕗は無意識に腕をさすった。
他人事には思えなかったのだろう。
「うちじゃ、そうは見えないが……」
「たぶん、この国では彼の存在があまりにも風変わりに過ぎるからじゃないですかね。争いもまたひとつのコミュニケーションの手段ですから。最初から全く分かり合えないと思えば、そこに接点すら生まれない」
合同庁舎は海沿いに建っている。
強く吹き付ける潮風を受けた掲示物が音を立ててはためいた。泰河の手が窓を締め、きちんと鍵をかける。風の声が遮られ、白壁の廊下はしんと静まり返った。
「それで、いま追っている案件なんですけどね。ちょっと気になることがあるんです」
「そこでそう繋ぐか? ほんと、小神野でなくともお前のその鉄面皮をはいでやりたくなってくるよ」
「矢蕗さんを信用して言ってるんですよ。最近、ある港運会社に立ち入り検査をした捜査機関がないかを知りたいんです」
「港運会社?」
「葛南東部地区にあるやつです。矢蕗さんも担当した野球帽の男が務めている会社」
「ああ、あれか。しかし、立ち入り検査の記録?」
「捜査対象の勤務先です。過去に何かの事件と関わりがあったとすれば、今回の事件に繋がる情報があるかもしれませんよね。照会する理由としては十分だと」
納得したように頷きつつも、矢蕗はむずかしい顔になる。
「だが、捜査機関といってもたくさんあるぞ。労働基準局に税務署、港運会社なら税関だって可能性がある」
「あとは、公安警察も」
「公安?」
矢蕗の眉が跳ね上がった。
「おいおい、まさか過激派と関係があるなんて言うんじゃないだろうな。マトリの手には余るぞ、それ」
「過激派のテロ組織が資金調達のために麻薬ビジネスを手がけるなんていうのは、海外じゃよくある話ですよ」
「日本もそこまで来てるってことか。世も末だな」
無意識に矢蕗の手のひらが腰の後ろを撫でた。服の上から銃の手触りをたしかめる。まだ、彼はそれで人を撃ったことはない。
いや、撃ったことはあるが当てたことはないと言うべきだろう。
「レザーは撃ったことがあるのかな。あるんだろうな」
「どちらにしても、日本では撃てませんよ」
「それはわかってるけど。敵は銃を持ってるかもしれないのに、丸腰で警護させるってのもひどい話だな」
矢蕗はばつが悪そうにつぶやき、缶の底に残っていたコーヒーを一気にあおいだ。
「いくか」
「はい」
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