14.ザ・フェイバリット(3)

 小神野が駐車場にあったライムグリーンのヤリスに乗り込むと、背後から「遅い」と英語で声がかかった。

「び……っくりした。なんでお前、こっちにいんの?」

 スモークで見えなかった後部座席にレザーがいたのだ。待ちくたびれたように頭の後ろで組んでいた両手を解き、クリップで留められた紙の束を差し出した。

「取扱説明書?」

 たぶん泰河が作ったのだろう。

 レザーの扱いに関する注意事項と、彼と仕事のやり取りで使いそうな英会話の例が和訳と振り仮名つきでまとめてあった。これを参考にレザーを使えということか。

「なんで俺が……泰河は? あいつは何してんだよ。ほら、泰河だよ」

 Ta・i・ga、と身振りを合わせてたずねると、レザーはキーボードを打つ仕草で応えた。パソコン? それじゃこいつはいらないな。

 ふと、レザーが何かに気づいたような顔で親指と人差し指を立て、小神野の腰を示した。

banger

「わかるのかよ」

 小神野は慌てて服の上から銃を押さえる。そんなすぐに見てわかるような装着の仕方はしていないはずなのに。

「ブキさんがついてた男と連絡が取れなくなったんだってさ。こっちの捜査に気づかれた可能性があるっていうんで、課長から銃の携行許可が出た」

 あらかじめ泰河が用意しておいた英語文のテンプレートに似たような意味のものがあったので、それに今の状況を当てはめて読み上げる。レザーが頷いていたので、まあ伝わったのだろう。

(……めんどくせぇ。頼むから、余計なことはしゃべらずに黙っててくれよ)

 小神野はシートベルトを締め、車のエンジンをかけながら内心で吐息する。自分の車から持ってきたCDをカーオーディオに入れると、陽気な曲が始まった。

 ぱぱらっぱ、ぱららっぱ……。

 願いも空しく、さっそくレザーが口を開いた。

「ラ・ラ・ランド」

 その通りだった。

 始まってすぐの冒頭。ハイウェイで渋滞した車の上で踊る、アナザー・デイ・オブ・サン。

 小神野は車を走らせながら、記憶をなぞる。

「……学生の時、女友達に誘われて映画を観に行ったんだよ」

 正直、話自体は面白いとは思わなかった。どうでもいい男と女の恋愛話が続いて、途中で飽きて眠くなったくらいだった。

「5年後に2人が再会するシーンも、最初は何がどうなったのかよくわからなかったし、いまでも意味がわからないところがあるんだけどさ。もしこうだったら――って2人が夢想するシーンで流れた曲を聴いたら、なんでか泣けたんだよな。理由が知りたくて次の週にひとりでもう一回観に行った。やっぱりわからなかった。でも、また泣いた」

 小神野はちょっと間を置いてから、自嘲する。

「なんて言っても通じねえか。どうせ、俺は泰河みたいにはできねえよ。あいつならちゃんと何がどうなってそうなるのかとか全部説明できるんだろうさ」 

 信号が変わっても動かない前の車に向かって警笛を鳴らし、右折。

 昨夜、小神野は同期の知人に電話をしてみた。一緒に採用された中では一番やる気があって、職場の評判もよかった男だった。

『ああ、辞めたんだ』

「え?」

『もう1年以上前だよ。言ってなくてごめん』

「いや、別に。そうだったんだ。こっちこそ悪いな」

 機会があったら飲みに行こうとか、適当な社交辞令を交わして電話を切った。リビングから寝室に移動し、広いベッドに背中から倒れ込む。

(どうして、俺は何をやってもつまらないんだろう?)

 医者の家に生まれて、何不自由なく生きてきた。頭もいいほうだったし、運動神経だって悪くはない。やる気になればそれなりになんでも出来たはずなのに、どれもこれも中途半端に投げ出してきた。

 そんな時、母親は決まってこう言ったものだ。

 ――いいのよ、そういうのはお兄ちゃんに任せてあなたは好きなことをやりなさい。

 小神野は枕を掴み、力任せに壁めがけて投げつける。

(のんきなババアが……! てめぇがそうやって甘やかすからこんなんなっちまったんだろうが!)

 俺だって、それがやりたいことなら頑張れる。ただ、やりたいことがなかったんだ。勉強も運動も、仕事も、なにもかも。

 俺は――なんならやる気になれるんだ?

「お前さあ、きょうだいいる?」

 小神野は車を走らせながら、後部座席のレザーに言った。

「ほら、ブラザーだよ。シスターでもいいけど」

 ようやく意味が通じて、レザーが答えた。

いるよYep

 仲は良かったのか聞きたかったが、あいにくとどう言えばいいのかわからなかった。小神野は「そっか」とだけ相槌を打ってそれきり何も言わないで運転を続ける。

 やがて目的地に着き、駐車場の端に車を停める。

 顎でレザーについてくるように指示した。

 車から降りた途端、潮風に乗ってオイルの匂いが鼻をついた。京葉工業地域。小神野は目的の倉庫ではなく、その斜向かいに建つ建物の階段を上がっていった。

 角部屋のベルを鳴らす。

 ややあって、低い声が応えた。

「どちらさま?」

「カノウだよ」

 鍵の開く音がして顔見知りの捜査員が室内に迎え入れる。カノウとはオカノの順番を入れ替え、言いやすくしただけの偽名だ。

「彼は?」

「レザー。民間警備員」

「ああ、話には聞いてる。会うのは初めてだな」

 彼はレザーと握手を交わし、引継ぎのための説明に入った。

 それからカーテンを少しだけずらして窓の外を指で示す。際どい角度だが、なんとか倉庫の表口が見渡せた。「右端に通用口がある」捜査員は言った。

「人の出入りは?」

 捜査員は携帯電話端末をいじってメモを読み上げた。

「朝に2人、昼に1人出かけてさっき帰ってきたところだ。中には常に誰かいて、多い時は5、6人にもなる」

「入れ替わりが激しいな」

「ガサ入れのタイミングが問題だ。全員揃っている時間はあまりない」

 小神野は姿が見えないように壁にはり付くような格好で、ほんの僅かに開いたカーテンの隙間から窓の外を見据えた。

 だが、距離があり過ぎて肉眼では部屋の識別もむずかしい。

「はい」

 レザーが持っていた10センチほどの単眼鏡を差し出した。防塵仕様の本格的なものだ。小神野はちょっと面食らってから、それを受け取った。

 左目に当てると、一気に視界がクリアになる。

「反対側にある建物にも人員を配置し、裏口の様子をうかがっている。ただ、そちらもずっとシャッターが閉まっていて中の様子はわからん」

 捜査員の説明に小神野は頷いた。

「人数が要るな」

「千葉県警にも応援を要請する。大捕り物になるぞ」

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