13.ザ・フェイバリット(2)
手のひらに馴染む薄めのグリップは、装弾数8発の
小神野は支給品のベレッタM85FSをインサイドホルスターに収めた。パンツの内側に銃をしまうことができる、秘匿性に優れたコンシールメントタイプのホルスターだ。位置は右の腰骨の前、アペンデックスといわれるポジション。抜き撃ちしやすいため、ドロウの速度にこだわる人間からの支持が高い。
「――」
壁のポスターを敵に見立て、左手で一気にTシャツの裾をめくり上げる。露出したグリップを決め、銃口を前方に向けながら銃を抜き出す。この時点ではまだ
1、2秒間その姿勢を保持してから、息を吐いて銃をホルスターに戻した。部屋のドアが開き、泰河が入ってくる。
彼は自分の席に腰かけ、引き出しの鍵を回した。中から小神野と同じ銃を下向きに掴み出して手入れを始める。
マガジンを引き抜き、銃口を下に向けたままスライドを2回ずらして
憎らしいくらいに手際がよい。
シリコンスプレーを吹きかけたインナーバレルにボアブラシ付きのクリーニングロッドを差し込み、薬室側から銃口側へ完全に通しては引き戻す動きを何度か繰り返す。
「何か用でも?」
泰河が言った。
それで、小神野はじっと見入っていた自分にはじめて気がついた。誤魔化すように視線を逸らす。頭上の蛍光灯はまだ直っていなかった。
「見られていると緊張するんですが」
小神野は泰河の言葉を嘘だと思った。
実際、彼の手つきにはまるであやういところがない。これで小神野より2つも年下の後輩なのだから、圧倒的に気にくわない。
「お前さあ、なんでマトリなんてやってんの」
つい、喧嘩を売るような口調になってしまった。
小神野は彼の正面にある自分の席に歩み寄る。机の角に尻を預けるような格好で浅く腰かけた。泰河はこちらに目もくれず、クリーニングロッドからボアブラシを取り外して専用のジャグに付け替える。
「学生の時に課長から声をかけられたんです。公衆衛生のために粉骨砕身するやりがいのある仕事じゃないですか」
軽く流されたような気がして、小神野は顔をしかめる。まるで、決まりきった脚本を読み上げられたような空疎さを覚えた。
「本当のこと言えよ」
「それは意味がない」
柔らかい布のパッチを、泰河はクリーニングロッドの先で優しくバレル内部に押し込んだ。
「俺の言ったことが本当であると、どうやって判断するんです? あなたが嘘だと思えば嘘、本当だと思えば本当。それだけのことじゃないですか」
傷をつけないように、ゆっくりと、少しずつ回転させながら内部の汚れを拭いてゆく。小神野は深く胸を喘がせ、正面の席に座る泰河を睨みつけるような形で上体を屈ませた。
「舐めるなよ。嘘は嘘、本当のことは本当のことだ。麻薬取締官の俺が、その区別もつかないと思ってんのかよ」
「じゃあ、試してみますか?」
あっさりと泰河は言った。
呆気にとられ、二の句の継げない小神野の目の前で、オイルを染み込ませたパッチをもう一度バレルの内部に挿入する。ライフリングにオイルを塗布しているのだ。最後まで完全に通しきってからクリーニングロッドを引き抜き、具合をたしかめるように中を覗き込む。
その、バレルの暗いホールの向こう側に泰河の黒い瞳が見えた。
「昔、俺はこの国が嫌いでした。それこそ生きているのが嫌になるくらい。さあ、これは嘘か本当か?」
「――――」
ごくりと小神野はつばを飲んだ。
答えを待たず、泰河は続ける。
まるで万華鏡で遊ぶように、バレルを指先でくるくると回しながら。
「それで、海外の大学に留学したんです。そこには俺の求めていた自由があった。少なくとも、あったように思えた。楽しかったですよ。朝起きて学校にいくのを待ち遠しく思いながら眠る夜が来るなんて信じられなかった。ああ、ちなみに嘘と本当が混ざっている可能性もありますから、全部がそうだとは思わないでくださいね」
覗いていたバレルを置き直し、泰河はにっこりと微笑んだ。
それから手に取ったフレームの裏側にシリコンスプレーを吹き、ナイロン製のブラシを隅々にまでかける。同じくフレームの内部にも、丁寧に。
「恋もしました。自分で言うのもなんですが、有頂天だったんですね。全てがうまくいっているように思えた。無敵のつもりだった」
最後は布で磨き、可動部に少しのオイルを差す。
「5年前、この国を未曽有のインフレが襲ったでしょう?」
小神野の背を嫌な汗が伝わった。
「あれ、俺のせいなんですよね」
……冗談。
口にしたつもりで、言えていなかった。
「日本が
いつの間にか組み上がっていた銃口が小神野の胸元を向いた。
泰河は薄く笑い、片手で持った銃の引き金に指をかける。
「さあ、どれが嘘でどれが本当でしょうね」
「ッ――!」
気づけば、小神野は手の甲で彼の銃を弾き飛ばしていた。せっかくメンテナンスしたばかりの銃が床の上を滑りながら柱に当たって止まった。
「お前、馬鹿にしてんだろ、俺のこと」
「いいえ」
「それが嘘だ」
小神野は項垂れたままつぶやいた。
泰河は涼しい顔で、
「ほら、あなたが疑うのなら本当のことも嘘になる。でも、何もかもを鵜呑みにするよりはその方がましだと思いますよ。人はもっと、自分の頭で考えるべきなんだ」
「……俺より先に昇進できると思ってんだろ」
「それは、はい」
「嫌なやつ」
泰河は立ち上がって銃を拾いにいった。何度かファンクションチェックを行い、引き出しの奥から取り上げた新しいマガジンを装着。やや斜めに銃を傾け、スライド後部を掴んで後退させる。手を離すとばねの作用でスライドが元の場所に戻る際、初弾が薬室に送り込まれるのだ。弾丸の減ったマガジンを一度取り出し、新しい弾を入れてから再びグリップに嵌め込む。
そうやって装填が完了した銃をパンツのベルトに留めたインサイドホルスターに差し入れる。小神野と違うのは装着する場所だった。基本的なオフサイドヒップ。背中側のやや右サイド、正面から見て5時方向にホルスター本体を取り付けている。アペンデックスよりも抜くのには時間がかかるが、より秘匿性が高く、安定感に優れるポジションだ。
「お前、やっぱり嫌なやつだよ。殴ってやりたいくらいに」
「俺は小神野さんのこと嫌いじゃないですけどね。だって、小神野さんが先に昇進して俺の上司になったらそれパワハラですよ」
「え?」
小神野は間の抜けた声を上げた。すでに開いたドアの向こう側にいる泰河が、ドア枠に手をかけながら嫌味なまでにさわやかな笑顔で言った。
「そうならないように俺が先に昇進しますよ。だからずっと、俺のこといじめてくださいね。小神野先輩」
ぱたん、とドアが閉まる。
だが、すぐにもう一度開いて泰河が顔を出した。
「そうだ、出かける時は2号車を使ってください。あまり待たせると機嫌が悪くなるので、できるだけお早めに」
今度はそれきり、彼が戻ってくることはなかった。
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