12.ザ・フェイバリット(1)

 メインレースの出走時間が迫っている。

 宵闇にライトアップされた本馬場への入場が始まるさなか、スタンド前の最前列に並んだ男は目深にかぶった野球帽のつばを持ち、後ろ向きにかぶり直した。

 日が暮れてもまだ蒸している。

 大型ビジョンに映し出されたオッズは上位3頭が拮抗中。手堅いレースだが、この暑さだ。荒れる可能性もある。男は少し悩み、パドックで仕上がりがよく見えた6番人気の馬を1番人気と組み合わせたワイド馬券を買い足した。

 平日夜の船橋競馬場には仕事帰りの会社員が大量に流れ込む。その波に乗って隣にやってきたビジネスマン風の男は、カフェオレの缶に口をつけながら新聞に目を落とした。

「尾行されているぞ」

 雑踏に埋もれる囁き。

 男は俯いて帽子を脱ぎ、だるそうに髪をかき回した。

「……いつから」

「ずっとだ。前はもっと若い男がついていた。だが、今度のやつは気配の殺しかたが甘い。いいか、一度だけ振り返れ。スタンド出口のすぐ脇だ。ひょろっとした黄色い開襟シャツの男」

 脱いだ帽子で首元をあおぐふりをして振り返ると、さっとレーシングプログラムで顔を隠すような動きをした男を確認。

 その間、ビジネスマンを装った男はぴくりとも動かなかった。あくまでも他人のふりを続ける。何も知らなければ、彼がかつらと眼鏡で変装していることになど誰も気がつくまい。仕立てのよいスーツと曇りひとつない革靴が本来の素性を包み隠し、品行方正なビジネスマンを演出する。

「千葉中央分室の矢蕗だな。マトリだよ」

 演奏隊が芝生に現れ、一斉にファンファーレが鳴り響いた。

「マトリ……」

「すでにお前の職場も名前も割れている。いま取引に使っている電話番号は捨てろ」

「わかった」

「それと、シマノが落ちた」

 クラブで薬物中毒死した客への密売容疑で逮捕された仲間の名だ。

「まさか。どうやって」

「腕のいい捜査員がいる」

「……ガサ入れが来る?」

 もし、シマノが仲買人の情報をもらしていたとしたらその可能性は限りなく高まる。男の予想を裏付けるように、ビジネスマンは全く姿勢を変えないままに「そうだ」と告げた。

「そうしたら、もうあの密売組織は切って構わない」

「まだ稼げそうだったのにな」

 男のため息は号砲にかき消され、誰の耳にも届かなかった。沸き立つ。馬の名前を叫ぶもの、出遅れに悲鳴を上げるもの。

 そうだ、6番人気はどうなった。

 向こう正面を先頭集団に食らいついている。

 最後のコーナーを回りきって、1番人気が馬群から伸びてきた。こい。鞭のたたき合いが始まった。完全に抜け出した1番人気と3番人気が相次いでゴール板を駆け抜ける。

「6番人気は――」

 残念ながら、馬群に呑まれたようだった。

「6番人気か。デビューしたての頃はいい馬だったがな」

 ビジネスマンは新聞にペンでレース結果を書き入れる。

「4歳で足を故障してから振るわない。いったん負け癖がつくと、そこから立て直せる馬はほとんどいない」

「あんたはさっきのレース、当てたのかい?」

 ビジネスマンは無言で指先に挟んだ馬券を見せた。

 1番人気の単勝1点買い。

「次はこの馬だけを買え。儲けさせてくれる」

「人気馬は好きじゃないんだ」

 男は外れた馬券をポケットの中で握り潰し、柵に寄りかかる。

 大型ビジョンには表彰式の様子が流れ始めた。まったく、誇らしいのは人間ばかりで馬のほうは「ふう、やれやれ」なんて聞こえてきそうな雰囲気でぐるぐるとその場を回りながら息を整えている。

「それじゃ勝てないな」

 その通りだと男は思った。

 勝つ馬を当てる遊びなのに、勝てない馬に入れ込んだってしかたない。それではただの養分だ。誰だって、勝ちたい。

「でも、好きになれないんだ」

 最終レースのパドックが巨大ビジョンに映った。

 1番人気は見目の良い青毛の牡馬。すらりと伸びた首をもたげ、おとなしく厩務員に引かれている。気負ったところがまるでなく、自然体で、かがやくように毛艶がよい。

「感情移入ができないんだよ。俺はそういう存在を指くわえてみてる側だったから、どうしたって応援する気になれないんだ」

「別に好きになる必要なんかないさ。勝ち馬に乗るだけなら、誰にだってできる」

 男は肯定も否定もせず、柵から離れて建物の中へ入った。メインレースが終わった後の閑散とした馬券売り場へ向かい、備えつけの購入用紙と使い捨てのクリップペンシルを手に取る。

 1番人気のマークを塗り潰しかけ、手を止めた。取り消して、少し迷った末に前走の成績が良かった栗毛と前に買ったことのある馬を組み合わせたボックスで買う。自動販売機に金を入れ、用紙を差し込むと馬券になって出てくる。

 機械に背を向ける際に軽く辺りを探ってみたが、あの黄色いシャツの男はどこにも見えなかった。外に戻ると、ビジネスマンの姿も消えていた。ほどなくして、ファンファーレが鳴り響く。男は柵に腕を置き、馬が走り出すのをただありのままに眺めた。

 そしてまたしても、1番人気の馬が勝った。

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