11.千葉中央分室Ⅱ

 ぱぱらっぱ、ぱららっぱ……。

 カーオーディオから流れる曲の陽気さと少し汗ばむような晴れた朝の空模様が、通勤時間の憂鬱な気分と致命的に噛み合わない。

 職場までもう間近の、千葉中央警察署前交差点。

 ボルボXC60の赤い車体を赤信号で停めた小神野は、ふと視界に入った公衆電話ブースに目を向ける。

 見覚えのあるやつがいた。

 扉を締め切ると暑いのだろう。開いて折りたたんだ扉に寄りかかり、肩に受話器を挟んだ格好で話し込んでいる。

「なんでわざわざ公衆電話なんか使ってんだ、あいつ」


            *  *  *


「いつものとこに送っといて」

『毎度のことだが、俺に任せていいのか? 懐に入れちまうかもしれないぜ』

「それならあんたにくれてやったと思うだけだよ。ありがとうな、サム。おかげで俺は天国へ行ける」

『――やめろやめろ、やめてくれ。例え話だよ。頼まれたようにちゃんとやってるから気持ちの悪い言い方をするな。まったく、寄付する側が感謝するなんてお前らのやり方は俺の肌に合っちゃくれない』

「寄付じゃなくて――」

 喜捨だ、と言おうとしたがあいにくと英語で何というのかわからなかった。それもそのはずだ。レザーに英語を教えたのはこのサム――サミュエル・クィンランなので、彼の知らない英単語をレザーが知っているわけがない。

『ところで、これ公衆電話だろう? いい加減プライベートの番号を教えろよ』

 相変わらず、手癖の悪い男だ。

「サム」

『なんだ?』

 囁くように呼ぶと、相手が前のめりになる気配がわかる。

 国際電話はカードの減りがはやい。

 レザーはたった一言を伝えるために、もう1枚を追加した。

「恋人つくれよ」

 返事を待たずに受話器を置き、戻って来たカードを指先ですくい上げる。


            *  *  *


 小神野は駐車場に愛車を停めて外に出た。鍵のかかる音を聞きながら、すぐ隣に停車している白のインプレッサをにらみつける。

 舌打ち。

 エレベーターに向かう。ボタンを押したところでタンクトップの脇に上着を抱えたレザーが自動ドアを通って舎内に入ってきた。髪を切ったらしく、こざっぱりとしている。

「……おす」

どうもhey

 小神野はまだ、この外国人の青年とまともに話したことがなかった。日本に来るなら日本語を覚えてからにしろよと思っている。

「こないだの殺人事件さあ、お前が犯人を捕まえたんだってな」

 どこまで理解できるのか試すように、小神野は全くの日本語で言った。レザーは僅かに首を傾けて目を瞬かせる。

 小神野は耳のピアスを指先でかいた。全部で3つ。

「その犯人が捨てた被害者の携帯電話端末から、ヤクの売人の電話番号が出てきたんだとよ。契約者は別で、無関係の人間だったらしいけど。ブキさんがおとり捜査して、何度かその売人と接触できたらしい」

 2人は降りてきたエレベーターに乗り込み、千葉中央分室の入っている階まで上がっていった。

「そしたら、そいつ、前から泰河のやつが目をつけてたのと同一人物だったみたいでさ。いまは他の事務所にも協力してもらってブキさんが張り込んでる。なんか、でかい密売組織が絡んでる気配があるとかで、近いうちに大規模なガサ入れがあるかもしれないって」

 雰囲気で仕事の話であることくらいはわかるのだろう。レザーは神妙な顔つきで、エレベータを降りた小神野の後をついてくる。

 分室のドアを開けるなり、小神野は眉をひそめた。

「おはようございます」

 挨拶の主は泰河だ。

 しかもなぜか、脚立に乗っている。彼も今日は薄着だった。綿麻の涼しげな真白いカッタウェイシャツを肘まで袖まくり、天井の蛍光灯をいじくっている。

「なにやってんだ?」

 小神野が聞くと、泰河の代わりに腕を組んだ女の係員が言った。

「蛍光灯がつかないんだよ」

 がっしりとした体格で背も高く、ヒールのある靴を履けば小神野と目線が揃ってしまう。頭の後ろでひとつに結った腰よりも長い髪に、眼鏡はメタルフレームのボストン。小神野や泰河よりも10歳ほど年上で、矢蕗と同年代になる。階級も彼と同じ係長だ。

まとい先輩。出張から帰ってたんすね」

「さっきな。ちょうどいい、手が空いているなら新しいグローを買ってきてくれないか。切れてしまったみたいなんだ」

「えっ、使い走りじゃないですか」

 小神野は嫌がったが、察したレザーが代わりに手を挙げる。

はいhey

「……あなたはいいです」

 泰河が嘆息し、レザーの申し出を退けた。

「というか、俺はITエンジニアなんですよね。電気配線は専門外なので、グローを交換しても直らなかったらお手上げです」

「この庁舎も古いからな。未だにLED対応前とは、予算の無さがしのばれる」

 纏は苦笑し、脚立を降りた泰河に目くばせを送る。

「さあ、紹介してもらおうか。彼を」

「俺は皆さんの英語力を憂慮します」

 咳払いを挟み、彼は英語でレザーに話しかけた。反応したレザーが頷き、纏に挨拶する。

 強烈な疎外感が襲来。

「いいですよ、俺が買ってきますよ」

 小神野は眉間に皺を刻み、自分から使い走りを引き受けた。


「あいつ、違法捜査してるんじゃないですかね?」

 小神野が纏にそんな話を切り出した時、すでに泰河はレザーを連れて分室を出ていた。纏はパソコンから顔を上げ、面白がるように笑う。

「ほう? それはあれかね、気に入らない相手が業績を上げているのはきっと不正をしているからだというひがみかね?」

 痛いところをずばりと突かれ、小神野はぐっと黙り込んだ。

 結局、新しいグローに変えても頭上の蛍光灯は直らなかった。明かりがつかないのは1本だけだが、それがちょうど小神野の席の真上なのが癪にさわる。

「ッそうですけど! でも、あいつの検挙率ちょっとよすぎじゃないですか」

「しかし、私が見たところ、彼の提出する証拠は全て合法的なものだ。違法性があれば裁判での証拠能力を失うことはお前も知ってるだろう。我々の仕事はな、証拠が全てなんだよ」

 纏の言う通りだ。

 小神野はほぞを噛む。

 どれだけ状況証拠が揃っていようと、肝心の薬物が出てこなければ――あるいは薬物検査で本人の体から検出されない限り――起訴の可能性はほぼ無い。

 そして泰河の検挙した犯人は現在のところ全員が起訴されている。それはつまり、裁判で有罪にできると検察が判断したのだ。

「ずっと否認を続けていたあの売人も、泰河が落としたそうじゃないか」

 纏が言っているのは、クラブの客が薬物中毒死した事件で逮捕された売人の件だ。あくまで自分は売り子であって、それ以上は何も知らない態度を貫いていた。

 それが一転、仲買人ブローカーの存在を認めたのである。

「調書を読んだが、実に鮮やかだった。あの話術は是非ともあやかりたいものだな」

 自分の嫌いな人間が褒められているのを聞かされるのは、なかなかに拷問だと小神野は思う。

「あいつと俺、なにが違うんですかね」

 恥ずかしげもなくそんな質問をできてしまうところが、小神野の短所であり長所でもあった。纏は眼鏡のフレームに指を触れる。その枠の中から見る自分はさぞかし子どもっぽい印象を与えたことだろう。

「知らなかったのか?」

 纏が意外そうに目を見開いた。

「泰河はあの壱谷課長が直々にスカウトした逸材だぞ」

「えっ?」

「なにしろ東大理学部卒のエリートだ。当時はサイバー関連の省庁からもリクルートがあったらしい。官僚の道に進んでいれば間違いなく幹部候補だよ。どうしてそんなやつが麻薬取締官なんかに――おっと、自虐的な言い方になってしまった。いや、私たちも十分に精鋭なんだがな。泰河の場合はあまりにも毛色が違うだろう? だから、課長に聞いたことがあるんだ。どうやって彼を口説き落としたんだ、そもそもどうやってそんな逸材を見つけたんだって」

 纏は椅子に深く座り直し、組んだ膝の上に手を重ねた。

「麻薬取締官は薬物捜査のエキスパートだ。ゆえに、人員の約6割が薬学部出身者で構成されている。この採用ルートは薬剤師の資格を持つ29歳以下の者が該当者となる。小神野、君はこちらだな。そしてもうひとつの採用ルートが国家公務員一般職試験の合格者だ。科目は『行政』か『電気・電子・情報』のどちらかと決まっているが、ほとんどは前者を受験した私のような法学部出身者で占められる。そう、泰河のような情報系学科の出身者は圧倒的に数が足りていないんだ。これだけインターネットを利用した犯罪が巷で蔓延しているにも関わらずな。どこの部署だって喉から手が出るほど欲しい人材だ。そんな新人を壱谷課長が一本釣りしたのさ。課長の同窓生で東大に研究室を持ってる鶴来つるぎって教授がいるだろ?」

「ああ、犯人のプロファイリング指導で世話になったことがありますね」

「どうやら、泰河は大学3、4年生の頃に鶴来教授の研究室へ入り浸っていた時期があるらしいんだな」

「はぁ? おかしいでしょ、あいつゴリゴリの理系っすよ。あの教授の研究室ってたしか社会心理学だかなんかっしょ。全然関係ないじゃないすか」

「だが、これは事実なんだ。天才的に情報処理のできる学生がうちの研究室に来ていると言って、鶴来教授は壱谷課長に泰河を引き合わせた。もちろん最初は断られたそうだ。院進も選択肢にあっただろうし、国家公務員のリクルートならもっと条件のよいところから引く手あまただったわけだしな」

「じゃあ、なんで」

「『この仕事をしていれば、お前の知りたいことがわかる』」

 壱谷の口調を真似て、纏が言った。

「これで、泰河が落ちた」

「……纏先輩」

「なんだ」

 小神野は事務椅子に座った自分の腿に両肘を置いた格好でじっと纏を見つめ、真顔で突っ込んだ。

「それで納得したんすか。俺、ぜんっっっっぜん意味わかんないんすけど」

「するわけないだろう。私だって課長に聞いたさ。いったい、泰河は何を知りたいと言ったのか? だが、そこまでは教えてくれなかった。さあなと笑ってはぐらかされた。おかげで私は気になって仕方がない」

 だが、と纏は頬杖をついた。

「本人に聞くほど野暮でもない。それは21歳だった当時の泰河にとって進路を決定するほどの重要事項だった。そういうのって、そう簡単に他人にさらすものじゃないだろう。私にも、小神野、お前にも身に覚えはあるはずだ」

 小神野はちょっと考える。

 椅子の背にもたれ、頭の後ろで両手を組み、天井を仰いだ。

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