10.Old soldiers never die(2)
「…………あれ?」
やはり違う。
彼の腕には何もなかった。
ただ、日焼けしたたくましい二の腕があるだけだったにも関わらず、差し出された画面に映る写真の男の腕では若くして亡くなったキューバの革命家が遠い眼差しで一点を見つめている。自らの使命をいっさい疑わぬような、強く、けれど悲愴な表情で。
「どうかしたのかい?」
2番目の男が顔をしかめる。
「あの、これ本当にその人なんですか」
「そうだ。君が見たのもこいつだろう」
「いや……」
「そんなはずはない」
否定しようとすると、強い口調でさえぎられたので驚いた。びっくりした気配が伝わったのか、相手も軽く謝る。
「すまない。だが、ジョバンニはジョバンニだ。君は何か思い違いをしてるんだよ、きっと」
元警備員は戸惑った。
彼の言う通り、この年になれば記憶違いも多くなる。しかし、さすがにこれだけ印象的なタトゥーの存在を忘れるはずはない。
「言いなよ」
逡巡を見透かしたような声色で、青年が言った。
「え?」
顔をあげると、彼は繰り返す。
「言っちゃいなよ。本当のことを」
意味を理解しないまま意図だけを理解して、元警備員はゆっくりと思ったそのままを告げた。
「いや、違いますよ。たしかに背格好は似てたけど、私が見た男の腕にこんな刺青はなかった」
「――なんだって?」
真っ先に、3番目の男が言った。
「おいおい、勘違いかよ。時間の無駄じゃねえか」
だが、すぐに首を傾げる。
「ん? でも、そいつが見た男は俺たちと同じ制服を着てたんだろう。偶然にしちゃ、出来すぎてやしないか?」
「だからそれはこの人の思い違いなんだよ。ジョバンニは今日の昼、この駅前に現れた。そこで野球帽を被った男と会ってから行方をくらませている」
「だが、こいつはジョバンニご自慢のタトゥーがなかったと言ってるぜ?」
「そんなはずはない」
音を区切るように大きな声で言い、2番目の男が元警備員の左肩を掴むように手を出した。にも関わらず、その指先は届かなかった。
「ベツレヘムの星って知ってる?」
青年は右手の親指で男の手の甲を押さえるようにして手を掴み、親指以外の指を上向かせる形でねじりあげている。
その場にいた誰もが息を呑んだが、リストロックされた本人が最も虚を突かれた様子で目をみはっていた。
「ベツレヘム? クリスマスの?」
聞き返したのは最初の男だ。
「イエス・キリストの誕生を告げた星の名だな。それが何か?」
レザーは肯定し、話を続けた。
「人から聞いた話なんだけど。あれってさ、本当は八芒星なんだってね。でもツリーに飾られる時は五芒星に簡略化されてる。なのに、そんなの誰も気にしてないって」
「そりゃあ、五芒星だろうが八芒星だろうが星には変わらないから……」
はっと、最初の男は何かに気がついたようだった。
元警備員にはまったく話が見えない。ああ、若いうちに英会話でも習っておけばよかったなと思ったくらいだ。
最初の男は、神妙な顔つきで言った。
「つまり、俺たちは4人ではなくて5人いたんだな」
「はあ? 何言ってんだ」
もうひとり、3番目の男も理解が追いつかない。
顔をしかめて説明を要求する彼に最初の男が言ったのは次のようなことだった。
「俺たちはいま3人いる。それにジョバンニを入れて4人。だが、あともう1人いて、そいつがジョバンニの代わりに目撃された。八芒星と五芒星の違いなんてはた目にはたいした違いじゃない。本人でなくとも背格好の似た人間に同じ服を着せれば、それらしく見せることは可能だ」
「あぁ……?」
しかし、やはり意味がわからないようで首をひねる。
「なんでそんなことをしなけりゃならねえんだ」
「ジョバンニがさっきまでここにいたように見せかけるため……じゃないのか?」
ゆっくりと、最初の男が隣を振り返った。
2番目の男は青年に手を掴まれたまま、じっと足元を見つめている。表情なく、どこか虚ろな目つきだった。
「お前、もしかしてジョバンニの居場所を知ってるんじゃ――」
2番目の男の行動は早かった。
皆まで言わせることなく、青年の手を振り切るために彼の頭部を狙った肘打ちを繰り出そうと動いた。ぐっと体をまわしながら内側へ弧を描くような軌道で顎を狙う。
不意打ちのフックを、青年は身を屈めながら前に踏み込むことで躱した。そのまま、自分に近い方の相手の足を外側から払いにかかる。
「うわ……」
無駄な動きを排した、鋭い大外刈り。
しかも、同時に掴んだ相手の肩を後ろへ押し倒して勢いを増した。筋肉質で重そうな男の体がふわりと浮き、激しい音をたてて背中から地面に叩きつけられる。
喧嘩か、捕り物か。
突然の騒ぎに人の流れが乱れ、駅前の交番から駐在員が飛び出してきた。元警備員も声をかけられ、事情を聴くために警察署まで呼ばれた。
なにがなんだか、わからなかった。
俺はただ、仕事を探していただけなのに。
「大丈夫でしたか? うちのがご迷惑をおかけしなかったでしょうか」
ひと通りの事情聴取を済ませた後で、若い男が警察手帳のようなものを見せながら現れた。形は似ているが、麻薬取締官と書いてある。エンブレムの形も少し違うようだ。
「ああ、いえ……むしろ助けてもらった、のかな」
なにしろ、状況が呑み込めないのであやふやな言い方になってしまう。うちの、という言い方も曖昧だ。自分より体格のよい男をあっさりと倒したあの青年と麻薬取締官の身分証を持つこの男との繋がりも見えてこない。
若い男は愛想のよい微笑みを浮かべ、どうとでもとれるような相槌をうった。
「恐れ入ります。こちらからもお話をうかがうことがあるかもしれませんので、連絡先をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ああ、はい」
電話番号を確認するために取り出した携帯電話端末の画面に入ったヒビを見て、改めて気分が落ち込む。
「今回の騒ぎは、薬物絡みの事件だったんでしょうか?」
「そうですね、詳しい捜査はこれから行います。必要があった際にはご協力をお願いします」
彼は丁寧に一礼し、青年を呼んだ。
「レザー、帰りますよ」
すると、青年は去り際に元警備員へ折りたたんだ札束を差し出したのである。
「画面の修理代。足しにしてよ」
彼は割れた画面の上に金を置き、立ち去ろうとする。
「あなたにあげるそうですよ」
若い男が言った。
元警備員は思わず、青年を呼び止める。
「待った、どうしてここまでしてくれるんだ?」
「神の思し召しならば」
彼は肩越しに振り返って聞き慣れない言葉で答えた。英語ではなかったと思う。歌うように伸びる語感の、不思議な響きだった。
その背を見送った後で、元警備員は思った。
仕事探しの続きをしよう。
ただし、警備員はもう辞めだ。
* * *
「どうしてあの3人があやしいと分かったんです?」
白のインプレッサが夕方の街を駆け抜ける。
泰河の疑問に、助手席のレザーは前髪をいじりながら答えた。
「仲間を探し出そうとしてたから。いなくなったらいなくなったで、普通なら放っておく。契約を放棄して逃げる奴なんてめずらしくもないから。なのに、あいつらは大真面目にいなくなった仲間の足取りを追おうとしてた。よっぽどの理由でもなければ、そんなことしない」
「なるほど」
「それに、仲間は裏切るものだから」
「物騒な金言ですね」
「ただの事実だよ」
「……あなたが捕まえた犯人、殺しを自供したそうですよ。薬物の共同購入の件で揉めて、金を持ち逃げされそうになったのでかっとなって――だそうです。首を締めて窒息させ、意識のない状態で海に放り込んだ。茜浜を選んだのは仕事で出入りしていて、勝手がわかっていたからでしょうね。駅前で目撃されたのは被害者の身代わりを頼んだ彼の知人だそうです。被害者が行方不明になった時刻をごまかすことで、自分のアリバイを作ろうとした。こんなに早く遺体が見つかったのは彼にとって想定外だったでしょうね。発見まで時間が経過すればするほど、正確な死亡推定時刻の特定は難しくなりますから」
「ふうん」
「でも、あなたが自分から事件に関わり合いになったのは意外でした」
「だって、契約書にあったし。健全な社会実現のために力を尽くせって。それに、あのおじさん――」
「? 彼がどうかしたんですか」
「いや、別に。なんでもない」
「気になるんですが」
「いいよ。この話はこれでおしまい」
「じゃあ、映画はどうでした?」
「……」
「レザー?」
「あのさ。
「話をそらしてません? まあ、いいか。あとで連れて行ってあげましょう」
「あと、“roheihashinazu”ってどういう意味なのかな」
「有名な“Old soldiers never die”ですよ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
「……ああ」
レザーは思い出したようにつぶやき、うろ覚えのチューンを口ずさんだ。
Old soldiers never die, never die, never die…………。
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