30.A bad carpenter blames his tools(1)

「朝だなぁ……」

 植木の影に屈み続けた腰がそろそろ限界を迎えそうな矢蕗は、ささやかに膝を曲げ伸ばして血行の回復をはかった。

 千葉県警察本部前。

 こんな格好、警備員にでも見つかれば確実に職質はまぬがれまい。

(同じ国家公務員でも省庁が違えば外様だからなあ)

 果たして、捜査のためだからと言って信じてもらえるかどうか。泰河に頼まれていた例の港運会社に関する照会でさえ、かなり渋られたのだ。なんとか情報を引き出せたのはねばり強さの勝利といえる。

 矢蕗はそれがどんなに地味な作業であろうが、はたまた長期に渡る忍耐を強いられる活動であろうが、最後までやり通すことができるこつこつタイプ。

 子ども時代からそうだった。夏休みの宿題は毎日少しずつ進めて終わらせたし、受験勉強だってむずかしいと言われたランクの学校を地道な反復学習によって落とした彼は、動きがあるまでじっと耐え続けることを自分に命じた。

 土曜日。

 本来なら休みの日だ。勤め人には貴重な、仕事を忘れてゆっくりと羽を伸ばせる日でもある。

 まったく、これで空振りだったら張り込み損にもほどがあるぞと内心では文句を言いつつ、視線は監視場所から切らさない。

(泰河のやつ……後でおごらすぞ)

 矢蕗は待った。

 そして、――成果はあった。

「まじかよ」

 白抜きの文字で『SAT』と書かれた漆黒の車体。県警の駐車場から出てきたのは、警備部の機動隊に所属する特殊部隊SATの特殊車両だった。続いて黒塗りの警察車両が2台ついていく。矢蕗は助手席に公安第三課長である雀堂の横顔を見た。

「泰河の言ってた通りじゃないかよ。どうすんだこれ」

 半信半疑だったが、目の前で公安課の出動を目撃してしまっては反論の余地もなかった。すぐに連絡を入れようとポケットから携帯電話端末を探り出した矢蕗だったが、ふと何かに気づいて辺りを見回した。

「――……はい、ええ。たしかに見ました。『SAT』の車両でした」

 おいおい、俺がこれからしようと思っていた報告をすでにやってるやつが近くにいるのか? 相手もまさか御同上がいるとは思いもしないのだろう、興奮して声が大きくなる。

「県警前を大和橋の方角へ向かっていきました。こいつは特ダネですよ。いったい何が起こるんです?」

 そろそろと相手の背後に近づいた矢蕗は、距離が縮まったところで一気に飛びかかった。

「うわっ!?」

「騒ぐな、騒ぐな! しーっ! いったいどこの伏兵だ?」

「あ、ちょっと」

 首に提げていた身分証明証をぐい、と引っぱった矢蕗の目に飛び込む新聞社名。スポーツ系の地方紙を発行している。矢蕗も張り込みの友として何度か購入したことがあった。

「新聞社……記者か!?」

「離してくださいって!」

「いったいどこからこの情報を得て張り込んでたんだ。上からの命令か」

「なんであんたにそんなこと答えなきゃならないんだよっ」

 揉み合う2人はまるで気づいていなかったが、彼らの目の前にある公園でも普段と違うことが起こり始めていた。制服を着た警察官が3人ほど、無線で連絡を取り合いながら周囲を警戒している。

「こちら、羽衣公園班。現在のところ異常ありません」


            *  *  *


「こちらは海浜幕張駅前バスロータリー班。異常なし」

 管内の警察署から派遣された巡査は、通勤や通学で混み合うロータリーを背景に無線を繋いだ。


「千葉中央警察署前交差点、異常なし」

「千葉港、異常なし」


            *  *  *


『離してくださいって!』  

 まだ通話が切れていない携帯電話端末からは遠く、誰かのわめき声が届いた。学生はちょうどその時、イヤホンをしていなかったので隣から漏れ聞こえる通話音声に眉をひそめた。

(いったい何だ?)

 そもそも、こんな時に外部からの通信を切っていないことの方が気になった。

 すでにミーティングは終了している。

 ホワイトボードに羅列されたソフトターゲットの数は4つ。

 海浜幕張駅前のバスロータリー、県警前の羽衣公園、千葉中央警察署、そして千葉港。手分けをして同時に襲撃する。武器はアサルトライフルかサブマシンガン。どちらか好きな方を選べた。

「どうした?」

 向いに座っていた青年が学生にたずねる。

 彼は少し不安なのか、落ち着かない表情で男の手にある端末を見つめた。

「彼、何か話していたようだけど」

 学生と青年は昨夜、初めてここで顔を合わせた。彼の他にも数人が同じフロアに集まっている。いずれも若者だった。印刷工場を改築した隠れ家の1階。電源の落ちた印刷機の脇には段ボール箱くらいの大きさの紙包みが大量に積まれてある。

「おい……」

 不審がる青年の代わりに学生は男に声をかけたが、返事がない。なんだか嫌な感じがした。ただでさえ、作戦決行前で神経が高ぶっているのに余計なトラブルは御免である。

「なんだ、親でも死んだのか」

「中止だ」

「え?」

 あまりにも唐突だったので、学生は聞き逃した。

 男はAK74の銃身を掴み、静かに立ち上がった。部屋を出る際に壁際でたむろして煙草を吸っていた連中の足を蹴ってしまったせいでにらまれるが、一瞥さえもしない。

 青年が気になる様子で言った。

「なんだったんだろう」

「……見てくる」

 学生は部屋を出て、階段を上ってゆく男の背中を見つけた。

「おい」

「やっぱりあいつ、裏切ってやがった」

「なにが」

「左沢だよ」

「は?」

「SATが来る」

 ひゅっ、と血の気がひいた。

「まさか」

「すぐ逃げろ。まだ間に合う」

「逃げろったって――」

 2階にあがったところで、廊下にいた者たちがこちらを見た。1階にいた者よりもやや上の年代。彼らは男の手に銃があるのを見とがめたが、男の方は気にすることなく3階を目指す。

「――」

 後を追いかけた学生は、踊り場を通った際にふと窓の外が気になった。だが何も変わりない。駐車した車があるだけだ。もともとは工場だった建物を改築した居住スペースは温かみがなく、病院や学校などの公衆施設が連想される。がらんとした廊下の右手側には窓、左手側にいくつかある部屋のドアノブを男は乱暴に引き開けた。

 ソファに座って煙草をふかしながら、携帯電話端末スマートフォンで本を読んでいた左沢がこちらを見る。ベッドとソファがあるだけの簡素な部屋。養老の倉庫がガサ入れにあってからずっと、この部屋が彼のねぐらだった。窓辺に張られたロープにはシャツや下着などの着替えが干してある。

「どうした? いま、やっと話が動いたところなんだよ」

 彼は中指と薬指で挟み込んだ煙草を吸い、指先を動かしてページを送った。

「ようやく北海道の別荘にたどり着いたんだ。出発時間までには読み終えるさ」

「話がある」

「だから、いまいいところで――」

 足早く歩み寄った男が銃の先で左沢の胸元を乱暴に突いた。

「俺たちを売ったな」

 静かな怒気をはらむ声色で、

「SATがここへやってくる」

 だが、左沢は驚きも狼狽えもしなかった。

 呆れた様子でこう言っただけだ。

「お前、まだあのマスコミと通じてたのか。駄目だって言ったろ」

「認めるんだな? 絶対に許せない。お前は俺たちの信用を裏切った」

「そうかもしれない」

 あっさりと、左沢は頷いた。

 またひと口、煙草を吸って吐き出した煙が窓から入り込む風に溶け消える。洗濯物が揺れて軽い衣擦れの音がした。

 学生は男の後ろに立ちすくみ、一歩も動けなかった。

 自分がほんの僅かに何かしただけで、取返しのつかないきっかけを作ってしまいそうな気がしていた。

 例えば、精密に計算されて作られたモビールのように。たったひとつのオーナメントに触れただけで、振動は連鎖して全てが動き始める。だから動けない。そんな気持ちを知ってか知らずか、左沢は敢えて学生の存在には触れずに話を続けた。

「でも、そうじゃないかもしれない」

「とぼけるな」

「だって、SATが来るんだぜ?」

 風に煽られ、左沢の指先にある煙草の先がぽっと一瞬だけ赤く燃え盛った。男が軽く引き金を引くだけで5.45×39mm弾に心臓を貫かれて死ぬのに、彼は待ちわびた友人の訪れを待つかのような口ぶりで言うのだった。

「ここに。大量の銃火器とそれを持った集団が待ち受けるこの場所に、わざわざ相手の方からやってきてくれるんだ。お前、この意味がわかんないの?」

 この状況でよくもまあ、挑発できるものだと思った。

 学生は左沢が殺されると考え、ぎゅっと目を閉じる。だが、銃声はいつになっても聞こえない。そっと薄目を開けて様子をうかがうと、男は目と口を驚愕の形に開いて左沢を見つめていた。

「俺たちの敵はなんだ?」

 左沢が言った。

 シンプルな質問。

「俺たちは何と戦っているんだ?」

 それで、学生もまた、彼の言わんとするところを理解してはっとした。左沢は煙草の灰を床の白いリノリウムの上に落とし、靴で踏みにじった。

「ここでなら、どれだけ派手に暴れたって誰にも迷惑はかけない。お前たちは革命の英雄ヒーローだ。無用な犠牲を出すことなく敵のみを倒して、それを世の中に知らしめる」

 ゆっくりと、彼の胸元から銃口が滑り落ちた。

 左沢は顎でドアを示す。

「わかったら下に戻れよ」

 おもむろに男は踵を返した。何も言わずに階段を下りていく。左沢は再び煙草をくわえ、文章が羅列された画面に目を落とした。

 それから、いまはじめて学生に気がついたかのような態度で言った。

「どうした? お前はもう21歳なんだろ、恐れてる暇はないぜ」

 学生の返事がないのを、左沢は苦笑して受け入れる。

「お前、どこかで自分は圧倒的な別次元にいて腐った連中を一方的に排除してやるような気分でいたんじゃないか。悪いな、そうしてやれなくて」

 携帯電話端末の画面を撫でる指先の動きを、学生はじっと見つめた。そうする以外に何もできなかった。まるでそこに書かれている小説の主人公のような気分だった。誰かの思惑に巻き込まれ、成すすべもなく翻弄されるだけの存在。頭から指先までがひどい痺れに侵されたように動かない。

 耳から入った左沢の声が血流に乗って全身をめぐり、身体のもっとも深い場所から響くみたいだった。 

「俺が公安と通じていたのは事実だ。やつらは俺を利用して過激な思想を持つ人間を排除しようとしていた。お前と同じだよ。自信があり過ぎるんだ。傲慢なんだよ。相手が自分の思う通りに動いてくれるものと錯覚する。だから、足元をすくわれる。相手にも相手の思惑があるのを失念している」

 その時、階下から銃声が聞こえた。

 学生は肩を揺らし、廊下の先を振り返る。

「来た?」

「まだ早い」

 それは左沢にとっても想定外だった。

「公安がSATを連れてくるまでもう少しかかるはずだ。何が起こった?」

 疑問に応えるように、拡声器に乗った若い男の声が左沢を名指しで呼びかけた。

『――左沢甲斐人。薬物密売の容疑で逮捕します』

 外だ。

 まさか、と左沢は肩越しに窓の外を振り返った。聞き覚えのある声が告げる。ソファを立ち、開けっ放しの窓に歩み寄った。

「マトリさん?」

 目を凝らすが、生い茂る木々に、駐車した車の影。身を隠す場所はいくらでもあった。

 宣戦布告。

 きちんと事前に断りはいれましたよ、というアリバイ作りを兼ねている。

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