29.深夜の傍白(3)

 泰河は噛み殺すように息を吐き、運転席のシートに座り直してシートベルトを手に取った。

「あなたも」

「帰るの?」

「いえ、無性に走りたくなってきた」

 突然のことでレザーは少し面食らったようだが、何も言わずに従った。

 ――東京湾岸道路。

 まずは京葉道路から東京外かく環状道路の千葉区間に乗り換え、高谷JCTジャンクションに設置されているETC専用ゲートを通過。深夜のため、まばらな走行車の間に滑り込むような形で東行きの流れに乗った。「泰河さん、運転うまいよね」「それほどでも」「映画の趣味は悪いけど」「なにか言いました?」星の見えない夜に空と海の境界線は曖昧に溶け合って、等間隔に立つ道路照明のライトばかりが一面の闇色によく映える。

 窓を開ければ、夜風が頬杖をついて外を見ていたレザーの髪を舞い上げた。湾岸幕張PAパーキングエリアでトイレを済ませ、稲毛、千葉中央、蘇我と臨海部を走り抜ける。

 特に会話はなかったが、レザーがたまに「あれはなに?」と窓の外を指差してたずねるのでその都度ガイドよろしく教えてやった。

「というか、これだけ暗くてよく見えますね」

「目はいいんだ」

 市原、姉ヶ崎の工業地帯を過ぎて次の袖ケ浦ICインターチェンジで連絡道に乗り換えれば、あれが見えてくる。たどり着いた途端、一気に左右の視界が開けた。木更津市と東京の川崎市を結ぶ東京湾アクアラインの一部。国内で一番長い橋、アクアブリッジ。

「広い」

 レザーが言った。

「空が全部見える」

 ただ、真っ直ぐに車を走らせる。

 白のインプレッサは海上を貫く全長4,425mの橋上を制限速度ぴったりの80km/hで駆け抜けた。

 

 人工島のPAパーキングエリアこと海ほたるに到着した頃には随分と朝の気配が近づいてきていた。駐車場に車を停め、薄暗闇の中のエスカレーターを5階の展望デッキまで上がった。

 風が髪を乱すので、泰河は革ジャケットのフードを被って先をゆくレザーの背中を眺める。彼は強い風をむしろ楽しむようにその身をさらしていた。タンクトップの上に羽織ったミントグレーのブルゾンをはためかせ、片手で髪を抑えながら泰河を振り返る。

「他には何もないね」

 360°パノラマの絶景。

 東の空と水平線の境目がピンクがかったオレンジ色に染まり、少しずつ夜空の領域を塗り変えてゆく。泰河は美しい薄明の空に背中を向けて、デッキの手すりへ後ろ向きに寄りかかった。なんとなくだが、レザーは少しだけしゃいでいるようにも見える。

 手すりに両肘を置いて上を向くと、彼の言っていた通り、空が全部見えた。

 全部。

 次第に雲が晴れ、世界全体が明度をあげてゆく。遮るものはなにひとつなかった。

「どうしたらいいと思います?」

「泰河さんの好きにすればいいよ」

 過去の自分の尻拭いをする気分は、筆舌に尽くしがたいものがある。しかもそれが終わりの見えないものであれば、なおさらに。


            *  *  *

 

 片づけられたダッシュボードの上には、コンタクトレンズ用の小さなケースが置かれている。

 泰河は脱いだ上着を体にかけ、やや後ろに倒した運転席のシートに埋もれるようにして仮眠中だ。エンジンを切って窓を少し開けた車内の助手席で、レザーはぼんやりと夜明けの余韻を残す空を眺めていた。

 静寂を破ったのは着信を告げるバイブレーションだった。

 泰河の体にかけられた上着のポケットから聞こえてくる。レザーは断りなく手を伸ばした。千葉中央分室からの連絡だったなら彼を起こそうと思ったのだ。

 ケースもフィルムも使わない素のままの携帯電話端末(にも関わらず、とても綺麗だ)をポケットから引き出すと、その着信表示を見たレザーの動きが止まった。

 ――stalker。

 身もふたもない登録名だった。

 レザーはほんの一瞬だけ迷ったが、応答を選んで耳に当てる。

『あれ? 繋がった。気でも変わったのかい?』

 英語。

 サムよりずっと洗練されている。

『時差が14時間あるから、そちらは翌日の早朝かな。僕の方はまだ夕方の4時だよ。時差にはいつも不思議な気分にさせられる。昨日の僕と明日の君がこうやって話すことができるなんて、ちょっとしたSci-Fiサイファイじゃないか? 昨夜はずっと作業してたから、いま起きたところなんだ。新しく構築したネットワークを試す前にちょっと君の意見を聞いてみたくてね』

 ストーカーだと事前に知らされていなければ、あまりにも普通に過ぎる話しぶりだ。自信家なのかほんの少しばかり押しつけがましさを感じる響きはあるものの、総じてスマートな印象を与えるとても聞き取りやすい声色だった。

「誰?」

 短くたずねると、小さく息を呑む気配がして沈黙。

 レザーは再度、誰何するべきか迷った。話し声で泰河が起きるかもしれない。その躊躇を見透かしたように電話の向こうの相手が言った。

『いい、何も言うな。きっと近くに彼がいるんだろう? どういう経緯で君がこの電話に出たのかはわからないが、自由に話せるような状況ではないようだ。僕としては、この会話が彼に知られることを好ましく思わない。だからふたりだけの秘密にしよう。いいね』

 明らかにこの予期せぬハプニングを面白がっているのが伝わる。興奮していると言ってもいい。相槌すら不要だと言わんばかりにまくし立てる。

『大丈夫。君が誰なのかはだいたいの見当がついている。近いうちにギフトを贈ろう。お近づきのしるしと、なにより事態が動いた記念に。それじゃ、また後で――ああ、この着信記録は消去させてもらうよ。改めて、失礼』

 切れた。

 レザーが履歴を確認すると、本当に消えていた。

「ストーカー、ねえ……」

 素知らぬ顔で泰河の上着のポケットに戻す。彼はきっかり1時間半で目を覚ますと、トイレの洗面台で顔を洗い、コンタクトレンズを入れて戻った。

「寝ていていいですよ」

「いや、起きれなくなるから」

 泰河は車をUターンさせ、アクアブリッジを引き返した。

 07:00。

 空はもうすっかり、薄い青色に変わっている。

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