28.深夜の傍白(2)

「麻薬取締官にならないか?」

 何の前置きもなく、突然だった。

「お前、理学部だろ。調べたことが正しいのか実験してたしかめたいとは思わないのか」

 差し出される募集要項。

 麻薬取締官になる方法は2つ。

「ひとつは、薬剤師免許取得者あるいは見込みの者。そしてもうひとつが、国家公務員一般職試験の選択科目にある『行政』か『電気・電子・情報』の合格者。欲しいんだよな、ITに強いやつが」

「いずれ国家公務員試験は受けるつもりです。行政機関からのリクルートがいくつかゼミの方に来ているので」

「政府肝いりの新設庁か、内閣直属の。あるいは、どこぞのサイバー対策室か。たしかに情報官としては一流の仕官先かもしれんな。エリートらしい選択だ。だがな、上から眺めてるだけじゃこの国のことはわからんぞ」

 鶴来の出した浅煎りのコーヒーをすすり、パイプ椅子に腰かけた壱谷は足で床を鳴らした。

「奈落の底から仰がなけりゃ、な。見えてこないものがある」


            *  *  *


「完全に乗せられましたよね。総合職試験の方も受かっていたので、最後まで悩みました。どうしても決めきれなかった俺はどうしたと思います? 彼に相談したんです。相変わらず、毎日電話をかけてくるストーカーみたいなやつに。他に友達がいなかったんですよ。まあ、彼だってもう友達ではなかったんですが、とにかく他に相談できる相手がいなかった」

 泰河は両手で撫でつけるように髪を漉き、深いため息をついた。

「そしたら、なんて言われたと思います? 『へえ、いいじゃないか。君のせいで破綻した国の治安を自分の手で守るなんて、いい尻拭いの仕方だ』と、こう言うわけです。一字一句違わずにこうでした。本気で死ねばいいのにと思った」

 泰河が語る間、レザーはペットボトルの水を飲んだり、ビスケットを齧ったり、サンドウィッチの包装を破いたりと気ままに過ごしていた。別に聞かせるつもりはなかったので日本語のまま独りよがりに話し続けていた泰河ではあったが、それでもあからさまに興味のなさそうな態度をとられるのは面白くない。

「はい」

 目の前に差し出されたハムとレタスのサンドウィッチ。相変わらず、レザーもペルシア語のままだった。彼は卵のサンドウィッチを選んで食べる。

 泰河も渡されたものを黙って頬張った。

 しばらくの間、黙々と食事を続ける。深夜の路地は何も音がない。そして助手席のシートの裏にはきっと、靴跡がくっくりと残されているのだろう。

 意匠のように

 思いもよらぬ経路をたどって、この身に押しつけられた。

「レザー」

 無防備に呼ぶが、反応しない。

 泰河はため息をつき、発音を変えた。

「レザー」

「なに?」

 根負けして英語に切り替えた途端、鮮やかに意思が通じる。泰河は全身から脱力した。

「結局、そうなんですよね。互いに交流するためには共通認識されている領域フィールドに上がるしかない。この場合は英語ですか」

「まあね」

 レザーは頷いた。

 イラン人の頷きは少し、この国のやり方とは違う。どちらかといえば首を傾げるような動きに近かった。彼はペットボトルを持った両手を膝の間に下ろし、やや前かがみになる。

「俺、あとアラビア語なら大体わかるよ。国境を流れる河辺の街で育ったんだ。そこじゃ、半分以上の住民がペルシア語とアラビア語を使い分けてた」

「国境を流れる河――」

「そう。アルヴァンド河」

 ちゃぷん、とレザーは半分ほど中身が残ったペットボトルを振った。

 それから、発音を変えて言い直す。

「アルヴァンド河」

 泰河には聞き覚えがあった。

 あの時はガサ入れ直前で、現場の路上に止めた黒いクラウンの後部座席に並んで座っていた。名前を名乗った後で、レザーが何かをつぶやいたのだが聞き取れなかった。

「河の名前」

「そう。あんた、自分の名前を〝泰らかなる河great river〟だって言った。俺にとってそれは故郷を流れるアルヴァンド河。つめたく皮膚に絡む水の流れ、死との境。あれを越えられたのは運がよかった。もう1回やれと言われてたってできない」

「越えた?」

「冤罪をかけられた。同じ部隊にいた民兵組織の仲間に、薬物密売の。通報を受けた兵士に銃で追われて夜の河に飛び込んだ。あの国じゃ、薬物犯罪は死刑にも相当する重罪だから」

 レザーは笑った。

「俺が悪かった。舐められてたんだ。仲間に入れてもらいたくて、いつも誰かの顔色をうかがってたから。2、3回は足がつって溺れかけたけど、なんとか泳ぎきって。対岸に這い上がった後で慟哭するみたいに泣いた。濡れ鼠のままで、一生分。だから涙は一滴だって俺の体には残ってない」

「笑って言うことじゃないですよ」

 彼の身に降りかかった事実よりも、泰河にはそちらのほうが痛ましく思えた。

「あなたはなにも悪くないじゃないですか」

「そんなこと言ったって、街にライオンや熊が出たら殺すでしょ? 自分の生きる場所の境界を守らないでのこのこと違う世界に混ざろうとするほうが悪いんだよ」

「でも、襲おうとしたわけじゃない」

 泰河は正論を言った。

「そう、仲良くなりたかっただけ」

 レザーは叶わなかった本音を言い、でも、と続けた。

「こっち側も、思っていたほど悪い場所じゃないよ。だって、ここなら俺は誰にも負けない。立場が逆転するんだ。いままでだったら悪者にされるのは決まって俺のほうで、時には殺されそうになったりもしたけれど。ここでは俺をいじめたやつのほうが死ぬ」

 平然と、まだ21歳の青年がそんなことを言うのだった。

「だから、笑って言わないでください」

「でも、本当のことだよ」

「前にいたチームのリーダーが死んだとか」

「エリヤに聞いたの?」

 レザーを派遣した民間軍事会社の警備部長だ。エリヤ・パーカー。前に問い合わせた時に対応してもらったので覚えている。穏やかな話し方をする壮年の男。

「ええ」

「死んだのはリックって呼ばれてた米国陸軍の退役軍人。経験者が優遇される民間軍事会社では現役時代の階級がものを言うから、元下士官だったリックは現場でよくリーダーを任されてた」

 レザーの話によれば、その日はチームで油田施設の警備にあたっていたそうだ。周囲に組まれた鉄筋の足場の一角で見張りをしていたレザーだったが、会社から支給されたアサルトライフルからはマガジンがそっくり抜かれていた。

「リックが抜いてから渡したんだ。後でチームメイトのロペスから聞いたんだけど、日給60ドル程度で元軍人の出稼組エクスパットと同じ仕事をする俺のことが気に入らなかったらしい。弾の入ってない銃を持って見張りしてるくらいが身の丈に合ってる、だってさ」

 何も起こらなければ良かったのだろうが、運の悪いことに不審な車の接近をレザーが報告した。技術者を送迎するための装甲車と、その後をつける古い型のピックアップトラック。

 何か細工されているかもしれない。レザーの報告を無視したリックの代わりにロペスが急いで通用門に駆け付けた。車を停め、運転していた武装警備員と技術者を外に引きずり下ろした。

 ――発信機でもつけられたってのか?

 リックは呑気に鼻を鳴らして空になった車内を覗き込み、それからロペスを振り返った。

 ――べつに何も。

 だが、彼は最後まで言うことができなかった。前触れなく車が爆発し、巻き込まれて死んだのだ。

 検問の治安部隊員が買収されていて、そこで即席爆弾IEDを取り付けられていたこと。車が施設内部に入った後で起爆させて本隊突入の囮にするつもりだったらしいことが、後日の調査で判明した。


            *  *  *


「リックの遺体は明日、遺族に引き渡すためにバグダッド空港まで輸送する。ロペスは全治1か月の胸部挫傷で入院中だ。油田施設の技術者と彼を送迎していた警備員たちは軽傷。本隊が乗っていた車には違法複製品のロケット推進式擲弾RPGも積まれていたというから、もし襲撃を許していればとんでもないことになっていただろうな」

 部長用の専用デスクでタブレットを操作するエリヤは、ソファに腰を下ろして自分の爪のささくれをいじるレザーにちら、と視線を向けた。

「もう少し、うまくやれなかったのかな」

「どっちの話?」

 レザーは微苦笑を浮かべ、上目づかいにエリヤを見上げた。

 姿勢が変わって、前髪に隠れていた瞳が露わになる。特徴的なヘーゼルアイ。薄手のTシャツを着た身体はきちんと鍛えられてはいるものの、元軍人や特殊部隊員たちの筋骨隆々とたくましい肉体と比べればまだ細く、しなやかだ。

「リックと? それとも、仕事の出来ばえについて?」

「両方だ」

「でも、今回のことはさすがにリックが悪い。弾を抜かれたんだよ。それに、俺が無線で異常を伝えようとしても耳を貸さなかった」

「なぜ、弾がないと気がついた時点で言わなかった?」

「いざとなったら敵から奪えばいいと思った。実際、そうやって本隊のやつらを仕留めた」

 こともなく告げるレザーにエリヤは呆れた様子だった。

「どこか、他の現場に行ってみるかい」

「厄介払いってこと?」

「世界は広いんだよ、レザー。アラビア語の通訳なら引く手あまたなんだが、君には向かないか。派遣できそうな依頼先はアフガニスタン、ウガンダ、ソマリア、――日本」

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