27.深夜の傍白(1)

 泰河は少し車を走らせただけで、すぐに路肩へ停めてしまった。ステアリングに突っ伏した顔色はわからない。運転席のシートの下に隠していた紙幣の束をレザーに向かって差し出した。

「ちょっと、気分が悪いので。タクシーで帰ってください。俺は少し休んでいきます」

 ぶつ切りのおざなりな英語。

 レザーは札束を受け取り、首を傾げた。

「夜にひとりは危ないよ」

 いいから行け、と追い払われる。

 肩を竦めて助手席を降りた。夜の湿った空気が皮膚にまとわりついてくる。

 大通りを目指しながら、うまく拾えるかなと思った。バスや電車ならともかく、この国のタクシーなど乗ったことがない。

 腕時計を見ると02:05。

 いっそ朝まで時間を潰すか? 深夜営業の店を探して街をうろついていると、コンビニエンスストアの看板が目に入った。


            *  *  *


 不意に助手席のドアが開いた。

 泰河は反射的に腰の後ろへ手を滑らせ、動きを止める。ロックし忘れていた車のドアを引き開けて乗り込んできたのはさっき出て行ったはずのレザーだった。

 なんで戻って来た?

 コンビニの白いレジ袋を――それもぱんぱんに膨れたのを手に提げている。泰河は触れかけていた銃身から指を離し、怪訝な顔で声をかけた。

「あの――」

「お腹減らない?」

 運転席と助手席の間センターコンソールに置かれたレジ袋をのぞくと、ミネラルウォーターやお茶のペットボトルが数本、おにぎり、サンドウィッチや菓子パン、カロリーメイトのフルーツ味。スナック類、箱入りの菓子がいくつかと――、泰河は指先でそれを掴み上げた。

 酒。

「お釣りは?」

 レザーは何かの容器に金を差し入れるようなジェスチャーをする。泰河はため息をついた。レジ前にある募金箱に突っ込んできた、ということだ。前にもやられたことがあったから、驚きはしなかった。

 しかし、呆れはする。

 少なめに見積もっても半分以上は余ったはずだ。

「店員が驚いたでしょう」

「〝arigatogozaimasu〟って言われた」

 店員の台詞を真似た部分だけ訛りのある日本語だった。

「あなた、実は日本語わかってるんじゃないですか?」

 泰河は前触れなく日本語に切り替えてカマをかける。が、レザーは首を傾げただけだった。演技なのか本気なのか判断がつかない。

「疑わしいな。わからないふりをしているのならやめてもらえません? いちいち通訳するのも面倒なんですよね」

 これも日本語。

 泰河は独りごとのように日本語でしゃべり続けた。

 酒はダッシュボードの上にあるサングラスの脇に置き、再び袋を探って適当なチョコ菓子を手に取る。外箱を開け、包装紙を破る。薄く焼いたビスケットの中にチョコレートが充填してある。昔からある定番の商品だ。

「それ、絵がかわいいよね。コアラ」

 レザーが何事かを言った。

 軽く笑っている。

「もしかして、いま、ペルシア語で俺の悪口か何か言いました?」

 意趣返しか? 何やら馬鹿にされたような気がしたのだが、すぐにどうでもよくなって口に放り込んだ菓子を噛み砕く。

「好きに言いなさい。どうせ何を言われたってわからないんだから」

「俺にもちょうだい」

 レザーの人差し指と親指が菓子の袋に突っ込まれ、ひとつふたつさらっていった。

「考えてみれば、お互い母国語以外の言語で話しているわけじゃないですか。きちんと意思の疎通ができているのかなんてわかったもんじゃないですよね」

 菓子の袋はすぐ空になってしまった。泰河はレジ袋の中からまた同じような菓子の箱を探って外装を破る。そのまま、日本語で話し続けた。

「あなたは知らないでしょうけど、日本語文法の構成において中心になるのはまず述語なんですよ。主語は必ずしも存在する必要はなく、基本は述語によって解説される主題があるだけなんです。ゆえに主語という言葉を抹殺せよ、とまで主張した文法学者もいたくらいで」

 タブ状になっている部分に爪を引っかけ、点線にそって蓋を開くとまだ中に内袋があった。梱包が厳重に過ぎる。力加減がうまくいかず、袋を破く際に中身がこぼれそうになった。

「もうひとつ、特徴的なのが間接受身文です。『俺が菓子の袋を開けた』これが能動文なら、『菓子の袋が俺に開けられた』が普通の受身文。間接受身文はこれにまったく新しい主語を足してしまうんですね。つまり――」

 泰河はレザーが取ろうとしていたビスケットの袋を横取りして、勝手に口を開けてしまった。

「『レザーは俺に菓子の袋を開けられた』。これが間接受身文です」

 はい、とレザーに菓子の袋を渡してやる。

「実際の動作主ではなく、起こった事実に影響を受けた人物を主役に据える。この文法、他の言語ではまず見られない特殊な表現なんですね」

 レザーがビスケットを齧る音が相槌の代わりに鳴った。

「自分の意志ではなく、まずは状況が先にある。他人事のような表現は謙虚かもしれませんが、同時に無責任ともいえるでしょう。常に第三者として受け身で物事を語る癖。それがこの国の本質を表している」

 細い棒状の菓子を指先で袋から引き出し、口にくわえる。かりっ、と軽い歯ごたえ。チョコレートが最後の最後まできっちりと詰まっているのがよい。

「対象からいつも距離をとっているんです。奥ゆかしいというよりは、あまり関わらないようにしている。日本人は協調性があるなんていうのは間違いですよ。実際は違うから、と決めつけ、認識を誘導する。標語の『トイレを綺麗に使ってくれてありがとうございます』と何が違うんですかね。実際はすごく自分の殻が固くて、ひとりの世界に閉じこもっていて、打ち解けない。だから同調圧力や空気なんて概念が生まれるんです。自分ではなく周囲の状況に影響を与え・与えられることで間接的に世界と関わろうとする。だいたい、根っから協調性が高い民族ならそれこそ力を合わせてハリウッド並みの大作映画が作れてもいいはずじゃないですか。邦画も日本文学も、みんなこの間接受身文の習慣から生まれた独自の芸術文化アートなんですよ」

 泰河はミネラルウォーターのペットボトルを探り取り、ラベルを見た。コントレックス。蓋を開けて口をつける。最初は水のつめたさを確認するようにひと口だけ、それから4分の1くらいを一気に飲んだ。

「……と、いうようなことを大学3年生の俺は鶴来教授の研究室に入り浸って調べていたのでした」

 運転席のシートに深く背を預けると、腰の銃が邪魔になる。泰河は「外しちゃえ」とばかりにインサイドホルスターごとサングラスと酒の隣にことんと置いた。

 ヘッドレストに頭を乗せ、力を抜いてシートにもたれかかりながら隣のレザーを見る。

「そういえば、ちょうどあなたと同じ年だった時ですね」

 レザーを初見では幼いと思ったが、あれは他の警備員コントラクターと比べての話だった。同い年だった大学生時代、果たして自分が彼よりも大人びていたかどうかは自信がない。

「ちょっと奇特な教授で、部外者の俺にも親切な対応をしてくれましたよ。あの頃はもう自分の講義はどうでもよくて、そっちにはほとんど顔を出していなかった。なぜ? なんて言えばいいんでしょうね。単なる事実だけを言えば、俺はただ友達をひとり失っただけのことなんです。それがどうして、になったのかまるでわからなかった」

 帰国しても毎日鳴る電話。

 たまらず番号を変えても、またかかってくる。

 彼にとって、そんなものを突き止めるのは造作もない。あまりにもしつこいので電話に出ると決まってこう聞いてくる。


 ――あの時、どんな気持ちだった?


 つい、床に携帯電話端末スマートフォンを投げつけた。

 もう二度と出ないと決めて、でも、我慢しきれず電話に出てしまう度に壊すものだから、端末自体持つことをやめていた時期すらある。

「そんっなに、ストーカーするほど俺のことが好きなわけ?」

 ある時、心底から切れて皮肉を言ったがまるで通じなかった。

『いや? 単に知りたいだけ』

 また壊した。

 メールが来るため、パソコンにも触らなかった。代わりに大学の図書館で本を読んだ。

 そのなかに鶴来の著書があった。

 彼は理学部の学生が社会心理学に興味を持っていることを面白がっていろいろな本を紹介してくれた。エーリッヒ・フロム。コンラート・ローレンツ。デイヴィッド・リースマン。

 知るためには読まなければならなかった。

 なぜ、自分はこの国が嫌いだったのか。

 なぜ、彼は毎日電話を鳴らすのか。

 なぜ、あれほど嫌いだったこの国がいまはとても居心地がよいのか。

 ――なぜ?

 そんな時に壱谷が研究室を訪れた。

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