26.茶番狂言(2)
「こんばんは」
ちょうど曲がサビに入ってボーカルが声量を増したので、挨拶はほとんどがかき消されてしまった。男は少し苦笑して、出口を指した。
「出ませんか。ここだと話がしづらい」
「……ああ」
釣れた。
呆気にとられるくらい、あっさり。
驚いてもいた。
相手に見覚えがあったこと。しかも、ずっと前に。
「あの時から?」
学生のつぶやきを、男は「ええ」と認めた。
「最初からマークしてました。あなたは学生だったので、左沢甲斐人の方を優先しましたが――もうそろそろ、詳しいお話を聞かせてもらってもいいですよね。もちろん、分室のほうで」
「ああ……」
外の空気は少し湿っていた。
がんがんに演奏がかかっていた室内から急に静かな外に出たので、よけいに静けさが極まって感じられる。実際にはほんの微かに音楽が漏れ聞こえていたのだが、そんなものはさっきまでの爆音に比べれば無に等しい。
――無。
人の気配すらない。
(おかしい)
足を止めてしまった学生に男が言った。
「どうしました?」
「…………」
どうしたもこうしたもなかった。
打ち合わせでは、獲物が釣れたら店の近くに待機している連中がいっせいに襲いかかる予定だったのだ。それが、あまりにもしんとし過ぎている。
「8人」
男は言った。
「え?」
「店の裏で物騒なものを持っていた男たちの人数です。店の中にもいるかと思いましたが、そちらは杞憂でしたね」
なぜそれを――。
いや、と思い直す。
理由など後回しにするべきだった。問題は、こちらの作戦が失敗したことだ。学生の判断は早かった。ぱっと踵を返して、全力で逃げる。だが、誰かに腕を掴まれた。
「は?」
気配などまるでしなかったし、その時まで学生はそいつの存在をすっかり忘れていたのだ。
異国的な風貌と隙の無いしぐさはたしかに、シューティングバーでM4A1カービンの弾を的から外していたあの外国人の青年に他ならない。
もっとも、いまはエアソフトガンではなくてひねり上げた俺の腕をぴくりとも動けない姿勢にロックしているが。
「今日は任意同行ではなく現行犯ですから、多少は手荒に扱われても文句は言えませんよ」
「はッ……」
無意識に笑っていた。
体をねじって身じろぐが、ほんとうにびくともしない。相手の足を踏んでやろうとするが、こちらの意図を読まれたかのように避けられる。
こいつ……!
学生はむきになって、脛を蹴ろうとしたり頭突きをくらわしてやろうと暴れた。しかし、ことごとくいなされてしまった。
なんだ、こいつ。
間近で目が合えば、「なにか?」といった感じで伏し目がちに見下ろしてくる。
「前と後ろ、どっちがいいですか?」
視線を戻すと、男の指先で手錠がくるりと踊った。
「普通は前なんですが、せっかくなので選ばせてあげます」
それはもう滅茶苦茶に暴れてやったら、後ろ手に手錠をかけられた屈辱的な格好で車の後部座席へと押し込まれてしまった。
自分側のドアは鍵がかかっているだけでなく、ぴたりと塀に寄せて停まっていて外へは出られそうにない。反対側は一緒に乗り込んだ青年が自分の体で塞いでいる。
「……なんなの、この人」
「はい?」
運転席の男が車内灯をつけた。
まぶしさに目がかすむ。
「隣の人。外国人じゃん」
「ああ、かっこいいでしょう」
「か……」
呆れ返り、半目で隣を見やった。
本人はまったくの無反応で窓の外を眺めている。惜しげもなくさらした二の腕はしなやかに引き締まり、手脚の長さもあって豹みたいなイメージだった。
男の方は指先で抜き取ったサングラスをダッシュボードの上に置き、ボードに挟んだ書類へボールペンを走らせる。
「01:20、麻薬特例法違反の容疑で確保。弁護人の選任はご自由にどうぞ。自分で雇うことがむずかしい場合は国選弁護人がつけられますが、こちらは勾留後の手配となりますのであしからず。お名前をお聞きしてもいいですか?」
「よくない」
「氏名を名乗るのを拒否、と。あと所持品を確認させてください。他に持っている薬物があれば全て提出するように」
これも無視すると、男は軽くボールペンの先を振って青年に英語で指示した。
「レザー。所持品検査」
それまで気のない素振りだった青年がぱっと動き、服の上から軽く手のひらで叩くようにポケットや腰回りに触れてくる。
「触るなよ」
身をよじって逃げるが、彼はさっさと目当てのものを探り出して男にそれを手渡した。ラウンドファスナーの長財布と
「中を見させてもらいますね」
男は白い手袋を嵌め、格子に編まれたホワイトベージュの革財布をぐるりと囲むレインボージップのファスナーを開いていった。中に挟んであったシープスターのパッケージ数個を取り出し、助手席のシートに並べる。それから学生証。
「いい大学じゃないですか。なぜこんなものに手を出したんです?」
記載してある生年月日と氏名を書き写してから、財布の中へ戻して元通りにファスナーを閉じる。学生は鼻で笑って答える気などなかったが、男はすらすらと告げた。
「過激派運動の活動資金源ですよね。左翼だか右翼だかは知りませんが」
学生は笑みを消し、男を見る。
「……なにを根拠に」
「今朝の新聞を見ませんでした? 左沢甲斐人の勤める港運会社の倉庫から大量の薬物と銃器が発見されました。裏帳簿には顧客リストと思しき反社会団体の名前がずらり。そのうちのどれかってところでしょう」
「なにを根拠に」
「しかも近日中にテロ行為を実行予定で、決行日は来週の土」
どん、と車全体が揺れた。
学生が土足で助手席のシートを蹴ったのだ。
「なにを根拠に?」
もうあと1ミリでも動く気配を見せれば、すぐさま取り押さえられるだろうことはわかっていた。隣の青年はつまらなさそうな顔でこちらを眺めている。だが、次はないとその目が言ってもいる。1回だけは見逃してやるとでも言いたげな、小さなあくび。
「これ、俺の愛車なんですよね」
男はボードを脇に置き、体をひねるようにして後部座席を振り返った。口調は穏やかで顔にも出さないが、明らかに怒っている。
「足、どけてくれません?」
「公務員の給料は俺たちが払う税金だろ。それが根拠もなしに人をテロリスト呼ばわりかよ、恥知らず」
「おやおや」
なだめるような口調がまた気に入らない。
「恥知らずというのはなかなかセンスのよい罵り言葉ですね」
「いくらでも言ってやるよ、恥知らず。自分たちが正義だとでも思ってるんだろ、権力がなければ何もできないくせに。俺はあんたみたいなやつらが大嫌いだ。ぶち殺してやりたいくらいだ。恥知らず」
静まり返った深夜の車内に自分の声だけがうるさく響いた。ほんとうに静かな夜だった。結構いろんなことをわめいたと思う。いろいろな不満もあったし、わけのわからない怒りがあった。
「こんなおかしな国をぶっ壊そうとしてなにが悪い? 嫌いなんだよ、こんな国」
吐き捨てるように言った時のことだ。
子どもの癇癪が収まるのを待つような素振りでこちらの言い分を聞き流していた男の表情が、その時、ほんの僅かに硬直した。
「いま、何て?」
「なんだよ、恥知らずのくせに愛国心はあるのかよ」
心底からしらける。
足をどけるとシートにはくっきりと靴跡が残った。学生はその足を自分の膝に乗せ、ずっと同じ姿勢で凝った腰をほぐすように身じろいだ。それから深くシートにもたれ、肩の力を抜くように長い息を吐いた。
「聞いたことあるよな。5年前、株価のチャートを狂わせたハッカーの存在。ずっと停滞していた日本経済にとどめを刺して、風穴を開けた。都市伝説や陰謀論みたいな扱いを受けてるけど、俺は信じてる。あの時、一瞬だけ何か変わるんじゃないかって思わせてくれた」
あれは、高校1年生の初夏だった。
最初は誰もが気がつかない。けれどゆっくりと、たしかに、少しずつ狂っていった。おかしいとどこかの経済学者が声を上げた時にはなにもかもが手遅れだった。
誰の親が首を吊ったとか飛び降りたとか、そういう話題にも慣れるころには教室の空席が増えて風通しがよくなった。窓を開ければ薫風が軽やかに吹き抜けた。
「あれが、いまの俺の原体験。俺の憧れ。俺にとっての
だからこれからやることをテロ行為だなどとは言わせない。もっと尊くて、美しくて、爽快な何か。
「俺がこの国を変えてやる」
だからテロリストだなんて呼ばせやしない。学生は本気だった。心底からそのつもりだった。
自分にならできる。
「ふ、ッ……」
にもかかわらず、それは――学生の決意を聞いた男の反応は、場違いなまでの失笑だった。
「は――」
口元を手で覆い、俯いた男の喉が堪えきれずに鳴った。
異変を察した青年が腰を浮かせかける。一瞬、注意がそれた隙をついて脱出を試みた。強引に体当たりをして後ろ手にドアのロックを探ろうとしたが、すぐにシートへうつ伏せに抑えつけられる。
「泰河さん」
タイガ、と学生は聞き取れた音を舌先で転がした。「大丈夫」男が応えた。
「ちょっと、おかしくて」
彼は俯いたまま、すがりつくようにシートを握りしめる。指の爪先がきつく、音を立てて食い込んだ。
「それがあなたの動機ですか」
なにがおかしい。
学生はもがいたが、さすがに身動きは取れなかった。もはや脱出は絶望的に思えた。だが、あり得ないことに男はこう言ったのだ。
「解放してあげてください」
意味がわからなかったのは青年も同様だったようで、
「
聞き返された男が頷いた。
「手錠の鍵です、どうぞ」
わけがわからなかった。
男から小さな鍵を受け取った青年はしばし躊躇ったが、再度促されたことで指示通りにロックを解除する。
学生は信じられない思いで自由になった手首をさすった。
「ここは見逃してあげます」
男はやっとのことで顔を上げ、ゆっくりと言い含めるように告げた。前髪のかかった目元が濡れている。泣くほど笑ったのか、こいつ。
「なんで」
「そんなに自分が正しいと思うのなら、試せばいいと言っているんです」
手を伸ばし、さきほど預かった財布と携帯電話端末を掴んで学生の手に返した。ないのはシープスターだけだ。それはそのまま助手席にあった。
なにかの引っかけなのかと思ったが、男は目の前で学生の名前を書き込んだ書類すら破り捨てる。
あっけにとられていると、早く行けと身振りで示された。
「…………」
動けないでいたら、青年が車のドアを開けて先に降りた。
新鮮な空気につられるように学生も外へ転がり出た。何度か振り返りながら、車を離れる。
男は――泰河はどこかへ電話をかけた。
「例の学生ですが、やはり泳がせます。近日中に左沢と接触する可能性大」
通話を切ると、ドアを開けたままでレザーが聞いた。
「いいの?」
答えがない。
「泰河さん?」
やはり、答えがない。
レザーはため息をつき、確信的につぶやいた。
「あいつ、死ぬよ」
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