21.公安警察(1)

「わかってるよ。ボランティアの日程だろ? 来週の土曜日。予定はちゃんと空けてる。持ち物? 筆記用具はあっちで用意してくれるんだったよな」


 ビルの裏に停車した白のインプレッサ。

 ダークスーツを着た男が運転席にいる。泰河だった。ワイヤレスイヤホンから流れる音声に耳を傾けている。

「ボランティア……」

 聞こえてきた単語を、自分の唇で繰り返す。

「筆記用具、ね」

 監視対象は誰かと電話で話しているようだ。通話は数分で終わった。泰河はイヤホンを外し、車を千葉県警本部に向けて走らせた。


 公安警察、と十把一絡げに言ってもその内実はさまざまだ。中央直轄の極秘捜査員、公安活動の施策指導を行う警察庁公安課、そして警視庁と全国の道府県警に置かれている実働部隊としての公安各課。いずれも警備部門の管轄に置かれているだけあって、存在目的は国家の安全を守ること。

「ご希望の資料ですが、外部に出せるのはこのくらいですね」

 泰河を対応した警備部公安課の職員は一応、申し訳なさそうな顔でファイリングされた資料をテーブルに置いた。

「拝見します」

 一言断ってから、泰河はファイルに目を通した。

 資料は至る所が黒く塗りつぶされている。

「これでは、報道機関向けの情報と何ら変わりないですね」

「外部向けですからね」

 泰河の向かいに腰かけた職員は恐縮そうに言った。

「同じ県警内でも他部署には捜査情報を伏せるのがうちのやり方なんです。ご理解ください」

「こちらの捜査協力には応じていただけない?」

「そうは申しておりません。うちで対応できることなら、いつでも力はお貸ししますよ」

 つまり――。

 泰河はやれやれと、呆れて庁舎を後にした。

「こちらの捜査情報を公開すれば、協力という名の横取りをする気はある……ね。なかなか、極秘捜査機関らしいあしらいかたじゃないですか」

 不意に鳴り響いた車の警笛に振り返ると、部下らしき職員に運転させた車の助手席で雀堂が手を振っている。


「例の港運会社を探ってるんだって?」

 雀堂は近場で買ったテイクアウトのホットコーヒーに口をつけ、単刀直入に聞いた。

 県警の向かいにある公園のベンチ。旧県庁舎跡を整備した小規模な古い公園で、小さいながらも噴水が水を湛えている。

 泰河はベンチに腰かけた雀堂の斜め前に佇み、正直に答えた。

「はい」

「目のつけどころがいい」

「去年、公安課であの会社の立ち入り検査を行いましたね」

「ああ」

「なぜ、関係者を逮捕しないんですか?」

 コーヒーの香りを楽しみながら、雀堂は木々の新緑に目を向けた。

「まるで、調査の結果を知ってるかのような物言いだな」

「否定はしないんですね」

「おたくと同じだよ。まだ泳がせてる。色々あるだろうが、まあ、お互いの領域は荒らさずにいこうや。そっちは薬物、こっちは国家安全。住み分けはできてるだろう」

「……残念ながら、犯罪者は住み分けをする気はないようですよ」

「ほう?」

「普通の商売だってそうでしょう? 昔はそれぞれの自営業者が独自に販売していた商品をいまならオンラインで24時間いつでもまとめて購入できる。それが当たり前になっている。注文を受けたら倉庫にある在庫を購入者の元へ発送するだけ」

「ふむ」

 泰河の話に耳を傾けた雀堂がカップをベンチに置いた。

「つまり、君はこう言いたいのかな? あの港運会社がそういうマーケットプレイス的な役割を裏社会で果たしていると」

「さすが、凄腕と褒めそやされる雀堂さん。仰る通りです」

「証拠は?」

「立件できる類のものはまだ何も。うちはそちらと違って、秘聴も秘撮も許されてはいないので」

「それは仕方ないな。公安は他国のスパイだって相手にしなけりゃならん。いちいち遠慮していたら、国が沈む」

「……国」

「そうだ。コーヒーに入れる砂糖みたいに甘い幻想を味わわせてくれる。それが国家さ」

 雀堂は再びカップを手に取り、静かにコーヒーを飲んだ。ふと泰河は思った。砂糖が国家なら、ミルクとコーヒーはいったい何の隠喩なのだろう。


 公園の前で別れる際、泰河は何気なくたずねてみた。

「雀堂さんは変装の名人ですが、射撃の腕の方はいかがですか?」

 雀堂は軽く笑った。

「実は、職務中に撃ったことがないんだ。そういう警察官は多いよ」

「そうですか」


 千葉中央分室は港の近くにある。吹き込む風に目をすがめると、海の見える窓際でレザーがぼんやりしていた。彼はすぐに泰河の存在に気がついて振り返る。

「あ、泰河さん。おかえりなさい。なんか今日はぴしっとしてるね」

「県警本部に行ってきたんです。あなたは寝起きですか? 寝癖がひどいですよ」

 レザーは窓際に置いた彼用の事務椅子に両足を上げ、片膝だけを立てたような格好で気だるげに窓枠へもたれていた。タンクトップの上に羽織ったサンドベージュのシャツはほとんどボタンが留められておらず、はだけた襟元から日に焼けた肩が剥き出しになっている。

「昨夜は東京まで密売ショップ摘発の応援に行っていたんですよね。どうでした?」

「そっちは無事に解決」

「それはよかった」

 この間はこちらの担当事件を手伝ってもらったのだから、お返しだ。だが、レザーは顔をしかめ、寝違えたからだをほぐすように組んだ両手を伸ばして首を回した。

「こっちに帰ってこれたのが明け方でさ。仮眠室で寝てたら小神野さんが起こしにきて……」

「どうしたんですか」

「しくじった」

「ほう」

 まさか、この手練れの警備員コントラクターからそんな台詞が聞けるとは。

「いったい何を」

「俺、朝は弱いって言ってなかったっけ?」

 話の前後がつながっていない。

 泰河は眉をひそめ、ネクタイを緩めながら自分の椅子を引き寄せた。机の上に封筒が置いてある。軽く振ると、乾いた音がした。

 椅子に腰かけ、封筒の中身をたしかめる。

「俺は初耳ですね。弱いんですか」

「あのねえ、駄目なの。眠らないのはどうにでもなるけど、いったん寝たら寝起きは最低。しかも仮眠室の固いベッドの寝心地が昔のやつと似てて……」

 

            *  *  *


いい加減にしろよFuck off dude、今度やったらお前の――を――してやるって俺は言ったよな、サム――?」

 

            *  *  *


「おやおや」

 泰河は他人事のように言った。

 レザーは片手で顔を覆い、うなだれている。

「小神野さんも災難ですね。それで、サムというのは?」

「昔、世話になってた米兵。初めて会ったのは5年前、16歳だった現地の子どもに『いくらで売る?』とか聞いてきた最低のクズ」

「それはそれは」

「さすがに腹が立って、起き上がれなくなるまで殴ってやった。後先考えなかった。殺されるかもしれないと思ったけど、あいつ、『お前強いな』とか言って、今の仕事を紹介してくれた。英語と戦い方もあいつが教えてくれた」

「何が幸いになるかわかりませんね」

「それはそう。俺はあの時、はじめて自分の力の使い方がわかったんだ」

 レザーは顔を上げ、じっと手のひらを眺めた。

。それまでずっと、なにをしてもうまくいかなかったのに」

「うまくいかなかった?」

 聞き返すと、おもむろにレザーが泰河を見た。

 まじまじと見つめてから、深い息を吐いて窓際に頬杖をつく。

「ちょっと話し過ぎた。だから寝起きは駄目なんだよ」

「寝直してくればいいじゃないですか」

「やだ。もうあのベッドで寝たくない」

 やれやれと、泰河はため息をついた。

 封筒の中に入っていたのは何枚かの写真と、それに関する報告書だった。レザーがあくび混じりに言った。

「それなに? 警察の人が届けにきてたけど」

「左沢に逃げられた時、助けに入った男が撃った銃弾の鑑識結果です」

 現場から発見された弾薬の写真を指先で翻す。

「逮捕者から押収したものと全く同じ弾薬ですね。おそらく、銃本体も同じでしょう。中国製トカレフの9mmパラベラム弾仕様」

「つまり」

「彼らの関係者ということです。薬物のみならず銃器の密売にも関わっていたとなれば、他の部署を巻き込んだ大事件ですからね。そっちの調整でうちの係員は誰もが大忙しですよ」

 泰河はがらんとした室内を両手で示した。課長以下、泰河以外の全員が出払っている。レザーは夜勤明けのため、留守番として残されたのだった。

「これからどうするの」

「あの港運会社を洗います」

 断言する。

「本当は左沢を逮捕してから着手したかったのですが、仕方ない。覚えてます? あなたに手伝ってもらって事務所から入手した情報。架空会社を通した大規模なマネーロンダリングの形跡が残っていました。おそらく、公安警察も同じ情報を得ているはずです」

「ああ、あの気さくな課長さん」

 レザーは思い出すように上を見た。

 泰河が頷いた。

「さっき会いましたよ。あの様子だと、いずれどこかでこちらの調査とバッティングするでしょうね」

「そうしたら引くの?」

「まさか」

 封筒の中に写真と書類を戻し、机の引き出しに入れて鍵をかける。それからいつも持ち歩いているモバイルパソコンを開き、すでに作成済みのファイルをクリック。

 課長席の脇にあるプリンタが動き始め、何枚かの表になったデータをA4用紙に印刷して吐き出した。

 泰河は席を立ち、印刷された書類をクリップで留める。

「怪しいと思われる積荷の流通経路をまとめておきました。税関に協力を依頼して、水際で抜き打ち調査を行います」

「水際っていうと……」

 レザーの視線が窓の外へ向いた。

 千葉港。

 京葉工業地帯をあまねく従える、この国で最も巨大な港湾空間。

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