20.~ではないと思う(2)
左沢は、現場のすぐ隣にそびえ立つ構造物の屋上にいた。
石油からゴム製品の元になるブタジエンを抽出するための工場だった。900℃以上にも及ぶ高温を加えるための釜を迷路のような配管が繋ぎ、それを支えるための鉄骨が剥き出しの外骨格として組み立てられている。
ブタジエンは、いわゆる合成ゴムの原料だ。主な生産物は車のタイヤなど。石油を精製するときに発生する副産物で、他にエチレンなどの炭素水素化合物が合成される。
おそらく、外気を通して熱を逃がす必要があるのだろう。壁の類はいっさいなく、面のない骨組みだけのルービックキューブの内部に鈍色の配管が血管のように詰め込まれているのだった。
すでに経営者は倒産した後で、解体されることもなく残ったままの構造物は一種の哀愁を誘う形骸として存在し続ける。
最上階にはひと際大きな排気口が天に向かって伸びていた。背後にフレアスタックのための細長く伸びた塔状の構造物を従え、濃い影群を地上へと投げかける。
ここで煙草を吸うのが、左沢のひそかな楽しみだった。
馬鹿と煙は高い所へ上る。
最初に言い出したのが誰かは知らないが、この場所には馬鹿になるだけの価値があった。まだ数本残っているセブンスターの箱から1本をくわえ、火をつけないまま唇で挟んで弄ぶ。
遠くの空からジェットエンジンの音が近づいた。飛行機。白い尾を引きながら、空港のある海の彼方へと去っていった。
左沢は使い捨てのライターで煙草に火をつけ、ゆっくりと味わう。
地上までは約40メートル。
捜査員たちが倉庫を取り囲み、突入の時を待つのが豆粒ほどの大きさで見下ろせる。そのうちに激しい銃撃戦がはじまった。
左沢は、潮風にさらされ、錆びついた手すりに寄りかかった格好で一部始終を眺めていた。退屈な映画をあくびをこらえながら見ているような、そんな背中だった。
途中、激しい爆発音が轟いた時にはさすがに驚いて身を乗り出してしまった。そういえば、と左沢は思い出した。取引先の中国人が置いていった爆竹を棚の奥に保管していたはずだ。あんな危険物どうしようかと思っていたのだが、ことのほか役に立ってくれたらしい。
俺のお気に入りの帽子はどうなったかな、と左沢はトレードマークを欠いた頭をかいた。スタジアムの
二度、三度と爆発が続いた。
地上の花火、とまでは言えなかった。美しくないし、音も激しいだけであまり風情がない。逃げまどう捜査員たちの声はここまで聞こえることはなかったが、彼らもまさかあんなものを隠し持っているとは思わなかったに違いない。
(意外と、誰かひとりくらいは逃げきれるんだろうか)
あいにく、ここからでは捜査員と仲間たちの違いすらおぼつかない。あれをもってくればよかったと左沢は無意識に胸元をさぐった。
野球観戦の時に持ち歩いている、オリンパスのそこそこ本格的な双眼鏡。倍率が8倍ほどあったはずだから、あれがあれば結構ちゃんと見えたはずなのだ。
ふと、左沢は気になるものを見つける。
他の捜査員とは離れた場所に、ひとりだけ目立つ人物の姿があった。捜査員は皆、黒や紺といった暗い色の服を着ているのにそいつだけ真っ白なTシャツ姿だったので目を惹いたのである。
(なんだ?)
妙な既視感。
だが、思い出せない。
彼は倉庫の壁際に並べて置いてあったドラム缶のひとつを通用口の前まで背中で押すような具合でずるずると移動させると、さらに1個を横倒して地面に転がした。何をしているのだろう。気になったその時だった。爆発のあった倉庫の裏手から飛び出してきた男が路駐していた車に飛びつき、中へと身を滑り込ませたのだ。
表通りから駆けつけた捜査員めがけ、加速する車――まるでそれを予見していたかのようなタイミングで割り込んだドラム缶が正面から激突し、暴走を食い止めた。
あとはもう消化試合だった。
やれやれ、と左沢は軽く肩をすくめる。あと少しで、あの得体のしれない人物に阻まれてしまった。
やがてサイレンと共に消防車がやってくる。お開きだ。現場には終戦の気配が漂っていた。すべては終わったのだ。
吸殻を足元に落とし、靴先で踏み潰す。
身代わりにした仲間には申し訳ないと思わないでもないが、それ以上にいい思いはさせてやった。
周辺の工場で働く作業員だろうか、野次馬が集まり始めたのを見た左沢はそろそろここを去るべきだと思った。あれだけ派手にやればそのうちマスメディアの連中も群がってくる。その前にこちらも撤退だ。帰ろう。
左沢は両手をミリタリーシャツのポケットに突っ込み、踵を返したところではっと息を呑んだ。
「――ベレッタM85FS」
銃口を向けられた状態でさえ、危機的な状況そのものよりも本物の銃の方に注目してしまうのはマニアの性であろう。
「正解です」
泰河は銃を構えたまま端的に言った。
「使用弾薬は380ACPの
体の正面、目の高さにまで持ち上げられた銃口。伸ばした腕は射撃の際の反動に対応するため、肩の力を抜いて肘の辺りを少し折り曲げている。
非の打ち所の無い、モディファイドウィーバースタンス。
僭越ながら、左沢はちょっと感動してしまった。市民の公衆衛生や安全を守ることを使命とする公務員が、ちゃんと最新の銃器の扱い方を研究して身に着けているのである。
「噂には聞いてたが、ほんとにM85なんだな」
「そうですよ。装弾数は8発と、
これはこれは。
久しぶりに左沢は高揚を覚えた。
そこは、両手を頭の後ろに組んで後ろを向け、とかだろう。絶対的な正解があるものの答えを言わずに相手の自主性をくすぐってくるこの腹黒さ。
「待った。俺が誰なのか、わかって言ってる?」
「左沢甲斐人、25歳。港運会社勤務。薬物密売容疑で逮捕状が発布されています。船橋市内のクラブや海浜幕張駅前での金銭授受を伴う薬物の取引、および売り子への指示を含む密売ほう助。これくらいでいかがです」
「――正解」
状況証拠は挙がっているわけだ。
さて、どうやって切り抜けるか。背後には40mの鉄壁。前には銃を構えた――、
「誰?」
純粋に興味があった。
「警察官……っぽくはないよね。私服だし、刑事でなければマトリかな? だとすると、前に俺のことを尾行してたのってそちらさん?」
すると相手も笑い、
「お察しの通り、関東信越厚生局の麻薬取締官です。手がふさがっているので身分証の提示はご容赦を。逮捕に応じてくれたら、供述調書を取る際に担当者として名乗ってあげますよ」
「交換条件か……」
左沢は計算する。
ここで逮捕されたところで、現在は薬物を所持していない。自分では使用していないので、尿検査の結果もパス。となれば、果たして送致できるかどうかは捜査員の腕次第だ。しかし、逮捕状が出ている以上はここで抵抗すると公務執行妨害罪が追加される。そうなれば、クロの判定を受ける可能性が高まる。
「でも、物的証拠はないんじゃないか? だから俺があの倉庫にいる時を狙って奇襲をかけた。知ってるぜ、マトリの検挙は犯人と薬物が同時に出なければ起訴率が大幅に下がる。ここで俺を逮捕してもうまみはないんじゃないかな」
「構いません。麻薬取締官の任務は薬物犯罪者の逮捕であって起訴ではない。そちらは検察官にお任せしますよ」
「釈放されてもいいって?」
泰河は柔和な微笑みを浮かべ、「ええ」と肯定した。
「少なくとも、留置期限までの48時間はお話できますね」
おっと、お話ときたか。
「そこで自供させる……とか」
「あなたがそうしたければどうぞ」
まただ。
必ず、選択肢をこちらに投げてくる。
左沢は大げさに肩を竦め、背後の手すりに寄りかかった。錆びついた手すりが音を立てて軋む。結構大きく動いてみたのだが、相手は微動だにしない。
(俺から行動を起こさない限り、撃ってくる気はない)
銃を持って来なくてよかったと思った。武装していたら、たとえ抜かなくても撃たれる大義名分を与えてしまっただろう。
だから、あの銃はただの脅しだ。
左沢はそう見抜いた。
いける。
撃つ気さえないのなら、振り切れる。
「いやいや、マトリさん。俺の方から自供したくなるわけがないでしょう」
「そうでしょうね。でも、別に俺はあなたに自供してほしいわけじゃないです。ただ、知りたいことを教えてもらえればそれでいいんですよ」
「え?」と左沢の表情が変わった。
泰河までの距離は3mほどしか離れていない。
こちらの困惑をあざ笑うように、ひと際強い潮風が2人の間を吹き抜けた。結構強い風だったのに、彼の上着はほとんどはためかなかった。黒のブレザー。ボタンを外しているのは銃を抜きやすくしておくためだが、その際にドロウしやすくするテクニックがある。上着の裾裏にコインか何かを仕込ませておけば、その重みで銃を抜くときに指で弾いてめくりやすい。ひと手間をかけるか否かで、僅かな差が生まれるのだ。
そういう、細やかで周到な準備ができる人間。一緒にサバイバルゲームでもしたらきっと楽しめるだろう。
「知りたいこと、だって?」
「ええ。俺はそのために麻薬取締官になりました」
いい加減、腕を上げっぱなしも疲れるだろうに泰河はまったく苦にする気配もなく、淡々と話を続けるのだった。
「……マトリさんが、マトリさんになった理由」
じっと、左沢は泰河を眺める。
「それを俺が知ってる? なんだか哲学的な問答だな。じゃあ、俺が犯罪者になった理由をマトリさんは教えてくれるのかい」
「いいですよ」
「は?」
「居場所がなかったからですよね。どこにも――表社会のどこにもそれがなかったから、裏社会にそれを求めた。違いますか?」
再び、強い風が吹き荒れる。
左沢はしばらくの間、何も言わなかった。
複雑な構造物は風が吹き抜ける度に奇妙な音を発する。まるで下手なリコーダーみたいな、気の抜けた音程で。
「……煙草」
左沢が言った。
「煙草、吸っていい?」
「どうぞ。俺も腕が疲れてきました」
泰河が銃を降ろしても左沢は逃げようとはしなかった。噛んだ煙草に火をつけ、煙を吐いた。泰河に箱の口を向ける。
「マトリさんも吸う?」
「いえ、煙草はやらないんです」
「あ、そう」
断られても左沢はいやな気分にはならなかった。むしろ好感が持てた。きっちりと自分の中で線引きをしている感じがいい。
「で、何の話だったっけ?」
「俺が麻薬取締官になった理由です。あなたがなぜ居場所がないと感じるようになったのかを知りたいんです。その感覚のほとんどは本人の主観によるもので単なる独我論の一種ともいえますが、それにしてはあまりにも多くの人間が罹患している」
「罹患、ね。病気みたいだな」
「実際、それに近いんじゃないですかね。非健康的であることには違いない」
なるほど、と左沢は腑に落ちる。
「治療方法は?」
「疑うこと」
だが、泰河は緩く首を振った。
「悪いんですが、俺はそれを治すことにはあまり興味がないんです。そんなものは、時期がくればほとんどの場合において自然治癒するものだから。そうではなくて、なぜそうなってしまうのか、原因が知りたいんですよ」
「むずかしいな」
普通、原因なんかよりも対処法の方を人は知りたがるものではないのだろうか。たとえば腹が空いたら、何か食いたくなる。それが空腹を満たす唯一の方法だからだ。腹の虫がぐーぐー鳴いている時に「どうしてお腹が減るのかな」なんて真剣に考えるやつはちょっと頭がいかれてる。
「あるいは、逆に考えた方がいいのかもしれない」
泰河が言った。
「そもそも、居場所があるとはどういう状態なんでしょうね」
「そりゃあ――」
左沢が言いかける。
だが、途中で動きを止めた。泰河が床に向けていた銃口を上げたのだ。彼は引き金を引くことを一切ためらわなかった。惚れ惚れするほどの決断だった。
泰河が狙ったのは左沢ではなかった。配管の影に身を寄せ、左沢を手招くのは船橋競馬場で密会したビジネスマン風の男。
左沢はとっさに背を翻した。手すりにそって駆け、外付けの階段を飛び降りるように下る。助けに入った男は消音器つきの銃を何発か撃ってから、手すりを直接越えて左沢の目の前に着地。
泰河は空になったマガジンを捨て、パンツのポケット内に装着したマガジンキャリーから予備を引き抜いた。顔の前に持ち上げた銃身に嵌め込む音が微かに響き、トリガーガードの枠内に逃げる背中が見えた。
「ッ!!」
頭上から狙い撃たれた左沢は、間一髪で足場の真下に潜り込む。
「こっちだ」
構造物の裏手にグレーの車が見えた。
飛び乗る。
急発進によるタイヤの摩擦が耳障りで甲高い音を奏でた。一気に加速。ようやく息がつけた。振り返るが、追手は見えない。
「余計な世話だったかな」
「……まさか」
さっきまで左沢のいた構造物が、リア・ウインドウ越しにまるでズームアウトするみたいに遠ざかっていった。いまさらながらに確信する。
シマノを落としたのは、あいつだ。
「助かったよ。けど、もうちょっと来るのが遅くてもよかったな」
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