7.ホリデー(2)
ひとりで映画を見終わったレザーは、終演してもなかなか立ち上がることをしなかった。心の折り合いがつかない気分は随分と久しぶりな気がする。自分の他には2人しか鑑賞客がいなかったこともあって、いまやレザーだけがぽつんと取り残されたシアターはひどくがらんとして見えた。
「映画のチケット?」
「そう、一昨日から公開の。観に行くつもりで発券しておいたんですが、急な呼び出しがあって。これから現場へ行かないと」
受け取った小さな紙をレザーは透かすように見つめた。
「刺激的なやつじゃないよね?」
「レイティングは“
泰河は洗面台の鏡に向き合い、シェービングクリームを塗った頬に剃刀を当てた。時折、流しっぱなしの水で刃を洗い流しては続きに戻る。
この間の分の支払いをするからと、彼のマンションまで来るように連絡があったのは今朝のことだった。
あまり朝に強くないレザーは、休みの日はゆっくりと寝ていることが多い。放っておくと、それこそ夕方近くまで。今日はメッセージの着信音がたたき起こしてくれたおかげで有意義な1日を過ごせそうだ。
「ふうん」
印字された映画のタイトルは日本語に改題されていて読めない。数字表記のスクリーンナンバーは2、上映時刻は10:50。
「映画、あまり観ないんですか?」
「有名なのは配信で見せられたことがあるくらい」
レザーは泰河の部屋を見回し、見つけた椅子に腰を下ろした。
外観は結構な築年数が経った古い鉄筋コンクリート造の10階建てマンションだが、内部はリフォームされていて想像していたよりも小綺麗なワンルームだった。薄いグレーベージュで塗っただけのシンプルなコンクリート壁がウッドフローリングのはっきりとした木目模様を引き立てる。バスタブはなく、独立したシャワールームとトイレがそれぞれキッチンの向かいにあった。洗濯は敷地内にある住民向けのランドリールームを使うのだという。
開けた海側にベランダがあるため見晴らしがよく、折り畳み式のベッドは起き抜けのままの状態でそこにあった。残りのスペースは複数のディスプレイが乗ったパソコンデスクと壁際に設置されたワイヤーシェルビングにぎっしりと詰め込んだ機材やケーブル類でいっぱいだった。
「専門なんですよ」
「それがどうしてマトリに?」
ディスプレイの脇には数冊の雑誌とカバーをかけた文庫本が積んであった。レザーは上に乗っていたセルフレームの黒縁眼鏡をのけて、手に取った文庫本のページをめくる。『様々なる意匠』小林秀雄。レザーには題字の意味も作家の名前もわからないが、印字の掠れや紙の風化具合からして出版からかなりの年月が経っていることだけは知れた。
「学生の時に課長から声をかけられたんです。公衆衛生のために粉骨砕身するやりがいのある仕事じゃないですか」
レザーはわざとらしく首をすくめる。
「ほんとにそうなのかな」
「信じるかどうかはご自由に」
「ふうん」
本を元の場所に戻したところで、つま先に何かが触れた。足を引っ込めながらデスクの下を覗き込むと、小さなランプがいくつもついた筐体を発見。
「なにこれ、ゲーム機?」
泰河が声をはり上げた。
「違います。蹴らないように気をつけてくださいよ」
彼は洗顔してすっきりした後の顔をフェイスタオルで拭い、コンタクトレンズをつける。スキンケアウォーターをなじませてから日焼け止めを兼ねたメンズ用のBBクリームに手を伸ばした。
「ホームサーバ用のマシンです。ここからハッキングしてもよかったんですが、この間は物理コピーしたデータが欲しかったので」
「何か違うの」
「デジタル・フォレンジックって知ってます? たとえ、パソコン内の履歴やデータが消去されていてもハードディスクが丸ごとあれば復元することができる。ハッキングでOS管理内のデータをのぞき見るだけではわからない部分まで調べることが可能なんです」
説明しながら、塗り終えたクリームを手のひらで軽く押さえてゆく。最後はヘアワックス。軽く動きをつけ、前髪に分け目をつくった泰河が洗面台の前から顔を出した。
「ところで、あなたその前髪、邪魔じゃないですか?」
なかなか目のつけ所がよい。
「ああ、そう……」
どこかちょうどいい
ワックスを伸ばした手のひらが近づいてきて、一瞬、視界が彼の両手で覆われた。おとなしくされるがままになっていると、やがて指先は遠くに去っていった。視界はよくなったが、額がむき出しになっているのはどうも落ち着かない。
泰河は手を拭いたタオルを洗濯かごに放り込み、車のキーを取った。
「ついでに近くまで送りますよ」
「それはどうも」
駐車場の車に乗り込んだところで、泰河が2つ折りにした札束を差し出した。
「60ドル程度がこの厚さね」
見た目だけなら大金だ。
「かさばりますが、送金履歴が残る電子マネーよりは足がつきにくいので」
レザーは受け取った札束をパンツのポケットに突っ込み、走り出した車の外を流れる景色に目をやった。開いた窓から潮の匂いを帯びた風が吹き込んだ。
「それで、わざわざ忍び込んだかいはあったわけ?」
「解析にはもう少し時間がかかります。あの売人の起訴請求期限までにはネタを上げたいところですね」
泰河はシグナルを出し、大きな国道に入った。14号と357号の看板が一緒に並んでいる。東京まで35km。軽く15分ほど走った先で幕張1丁目の交差点を左折、大型ショッピングモールの前でレザーを降ろした。
「帰りは電車を使ってください。千葉みなと駅まで京葉線で3駅ですから」
「わかったよ」
レザーはドアを閉める前、思い出したように車内を振り返って言った。
「チケット、ありがとう」
泰河は目を瞬いてから、昼の顔で微笑んだ。
「いえ、無駄にならなくてこちらこそ助かりました。それじゃ、よい休日を」
レザーはようやく座席を立ち、シアターが入っているショッピングセンターのフードコートで口直しにピザを頼んだ。
人の趣味は千差万別であると心の底から思い知りながら、運ばれてきたピザに手をつける。酸味の効いたトマトソースにたっぷりのモッツァレラチーズとみずみずしいバジルのマルゲリータ。おいしかった。
気を取り直して帰途についた矢先、あの携帯電話端末が足元へ転がってきたのである。
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