6.ホリデー(1)
あれは、非常に奇妙な体験だった。
結果は不採用。
最近は外国人の警備員が増え、いい仕事は彼らに取られるようになってしまった。定年間際で目立つ経歴のない彼のような人材は安く買いたたかれるばかりだ。それでも、仕事があるだけマシだったが。
つい数日前まで彼を雇ってくれていた港運会社もそのひとつだ。
葛南東部地区に事務所を置き、取引先企業の貨物の輸出入を請け負っている。
あの夜はいつも通りに事務所周辺の見回り中だった。
建物の周りをひと通り確認し、通用口前まで戻ってきた時にそれは起こった。突然、背後から口を塞がれたと思った瞬間、強引に建物の影へと引き倒されたのだ。どうやら意識を失ってしまったようで、交代時間になって探しに来た同僚に揺り起こされるまでの記憶がない。
当然、雇い主にありのままを説明した。
だが、返ってきたのは信じられない返答だった。
「君の言っている夜のことだけどね、特に問題はなかったはずだよ」
会社から連絡を受けた派遣会社の担当者は、極めて事務的に言った。
「契約している警備会社に連絡をとってみたが、防犯カメラには何も映っていなかったそうだ」
そんな馬鹿な話が、果たしてあるのだろうか。狐につままれたような気分のままクビになり、その港運会社とはそれっきり関係が切れてしまった。はやく次の仕事を探さなければならない。
それにしても、非常に奇妙な経験だった。
夢だったのかもしれない。
――いや、それにしては――。
元警備員はため息をついた。
いずれにしたって、あんな経験は2度とごめんだ。
気を取り直すようにもう一度息を吐き、求人情報をスクロールする。休日らしく、駅前は人通りが途切れない。
数人で固まって移動する学生たちが連れ立って近場の飲食店に吸い込まれていく。駅に向かってゆっくりと歩く老人の背中。忙しなくタクシーに乗り込むビジネスマン。案内板の前で誰かを待っている、背の高い痩せた男。数分後、向こうから歩いてきた外国人の男が手を挙げながら合流した。寄り添って話し合う彼らの後ろを、まだ幼い子どもが駆けた。すぐに親が呼び寄せ、今度は親子そろって駅前のロータリーに停車中のバスへ乗り込んだ。ショッピングセンター行きの路線バス。たしか、シアターが併設されていたはずだ。あの親子もこれから映画を観にいくのだろうか。
「いい休日を」
そして、俺にはいい仕事を。
うんざりするくらい細かい文字で並んだ求人内容を、老眼がはじまった両目をすがめて追いかける。どれくらいそうしていただろうか。結構長い時間が過ぎたと思う。条件の合った求人がなかなか見つからず、また別の情報サイトを眺めていた時のことだ。
「ちょっといいかな」
訛りのきつい日本語は、随分と体格の良い外国人の男たちから発せられたようだった。顔を上げると、いつの間にかそんな男たちが3人も自分を取り囲んでいる。いずれも見るからに鍛えられた体で、いかにも強そうだった。
そう、こういう男たちが本国から警備員として出稼ぎにやってきているのである。つまりは、商売敵。
「……何か?」
「聞きたいことがあるんだ」
頷くと、3人組のうちのひとりが神妙な顔つきで言った。
「人を探している」
「はあ」
「俺たちのようなやつをこの辺りで見なかったか?」
なんて大雑把な訊ね方だろうか、と元警備員は思った。改めて彼らを見ると、3人は同じようなロゴの入った民間軍事会社の制服を着ている。動きやすそうなワークウェアにチノパンを履いたラフな格好。
そして、たしかになんとなくだが見おぼえがあるような気がした。
「ああ」
元警備員はすぐに思い出し、目の前の案内板を示して説明する。
「さっき……じゃないか。結構前にそこで背の高い男と一緒にいましたね」
「何時ごろだ?」
「いや、正確な時間までは――」
決してごまかしたつもりはなかったが、彼らからすれば非協力的だと思われたのだろう。3人組の間で目くばせが交わされ、通行人からこちらの姿を隠すように体で壁を作られてしまう。
剣呑な気配を感じ取った元警備員の脇の下が汗ばんだ。
なにしろ、相手は屈強なプロの警備員だ。しかもこちらの話を聞いてくれない。あまり前向きな状況とは言えなかった。
「あっ……」
とっさに腰を浮かして逃げる体勢をとろうとしたところで、
やめてくれ、と思った。
無職になって金がないのに、画面が割れでもしたらどうにもならない。だが、願いむなしくディスプレイ側を下に向けて落下したそれは、くるくると横向きに回転しながら石畳の上を滑っていった。
ちょうど通りかかった青年が立ち止まり、上半身を屈めて拾い上げる。元警備員はほっとして声を上げた。
「あの、私のです」
「ああ――」
たぶん、英語だったのだと思う。よく見ると日本人ではなかった。
彼は拾い物を手にこちらを見た途端、はっきりと怪訝な顔になる。無理もないだろう。この状況ではまるで尋問中だ。
「仕事?」
青年が男たちに問いかけた――ワーキングとかなんとか聞こえたので、こちらが何か悪いことをしでかして、彼らに捕まっているのだと誤解したのかもしれない――しかし、幸いなことに3人組は首を振って否定した。
「いいや、彼に聞きたいことがあるんだ。さあ、それを返してやってくれ。話の続きをしたい」
「脅してるように見えたけど」
「まさか」
いったい、何を話しているのだろうか。
そわそわしているうちに、青年と視線が合う。20かそこらの若者。グリーンがかった明るいブラウンの瞳が目を惹いた。
「?」
首を傾げながら成り行きを見守っていると、青年は3人組となにやら交渉を始めたのである。
「その話、俺にも聞かせてくれない?」
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