3.千葉中央分室Ⅰ(2)

 2週間ほど前、千葉市内のあるクラブで客の男が急死する事件があったのだと泰河が言った。酒を呑んでいるうちに意識が混濁し、救急車で運ばれたが搬送先の病院で死亡を確認。

 司法解剖の結果、薬物の過剰摂取による中毒死と判明した。

「すぐさま店は封鎖。店内からはフェネチルアミン系の禁止薬物が検出されました。死亡した客と一緒にいた知人を事情聴取したところ、彼らに薬物を販売した売人が特定できたので逮捕に至った次第です」

 売人の男は、一見してどこにでもいそうな若者だった。すでに検察への送致は済んでいるとのこと。

「送致?」

 そういえば、動画制作犯の時にも同じことを言っていた。

 レザーが聞き返すと、泰河が説明する。

「我々や警察が被疑者を逮捕した場合、通常48時間以内に留置すべきか釈放すべきかを判断しなければなりません。留置の必要アリ、とされた者は証拠類とともに検察官に送致され、今度は起訴すべきかどうかの判断を下されます」

 よくもまあ、これだけの専門用語をすらすらと外国語で話せるものだ。

「ごめん、ちょっとむずかしい。もっと簡単に説明してくれる?」

 それで、泰河もレザーがあくまでネイティブっぽく喋るだけの外国人であることを思い出した。

「検察官という、犯人を起訴して裁判を行うべきかどうかを決める仕事の人がいるんです。マトリや警察官の仕事は犯人を捕まえるまで、その先は彼らの判断にゆだねられるんですよ」

 一気に偏差値が落ち、まるで子どもに説明するようなやさしい言葉選びになった。

「それで、今日は何を調べるわけ?」

「当然、薬物の仕入れ先です。ここに鑑識の分析結果があるんですが……まあ、ヤバい成分が盛りだくさんのデザイナードラッグですね」

 泰河は手元のファイルをぱらぱらとめくった。

「しかも、裏で結構売れてるんですよ。商品名をシープスター。切り取り線の入った吸い取り紙に薬物を染み込ませたペーパー・ブロッターが1シート15ドルほどの安価で取引されています。先日逮捕した動画制作者もこの薬物のコマーシャルを請け負っていました。動画の出来はいい方でしたよ」

 取調室は白っぽい壁に囲まれた四角い部屋だった。ひとつだけ置かれたテーブルを挟んで男と矢蕗が向かい合っている。泰河は隣の部屋にレザーを案内して、ガラス窓(反対側からはただの鏡に見えるマジックミラーというものらしい)越しに様子をうかがった。

 声までは聞こえないが、たとえ聞こえたとしてもレザーには理解できない。だから、男の表情や仕草を眺めるだけだ。

 男がしゃべり、矢蕗が手元のパソコンに打ち込む。繰り返し。ときおり矢蕗が聞き返すか先をうながし、男が黙り込んだり肩を竦めたりする。

 感情の発露はほとんどない。

 ないが、ほんの僅かに頬がゆがんでいる。目線は矢蕗に合わせたまま、顎だけを小さく動かすような相槌。体は深く椅子に腰かけたまま、微動だにしない。

 思わず、レザーは笑ってしまった。

「なにか?」

「嘘ついてる」

「わかるんですか」

「わからないよ。でも、あの男、相手を馬鹿にしてる。俺の方がすごいって思ってる」

「それはそれは」

「どうしたの、泰河さん。真顔になって」

「いえ、別に。なにをどうやったらそれだけの自信が湧いてくるのか、彼の心理に興味がありますね。身のほどを知るべきじゃないかな」

「じゃあ、次はこの事件?」

「死者も出ていますしね。腰を据えてやりますか」

  

 頼まれただけ。

 売った中身が何かは知らなかった。

「だとよ」

 1時間後、廊下で落ち合った矢蕗はしぶい顔だ。

「黙秘も同然だな。売り子の常套句だ。そう言いはれば、起訴はないと踏んでやがる」

「それで、頼んだ相手は誰だと言っているんです?」

「それも『知らない』だ。押収した携帯電話端末からは仲買人ブローカーに繋がるようなものは出てこなかった」

「だとすると、直接会ってやり取りしていた可能性もありますね。彼の身辺を洗いなおしてみましょうか」

 矢蕗と泰河が打ち合わせている間、レザーはおとなしく壁に背を預けて彼らの話が終わるのを待っていた。

 出番のない時はできるだけ体力を温存しておくのに限る。長年、戦場で生きてきたレザーの流儀だ。拘置所内の独特な空気に身を慣らすように、さりげなくまわりに目を配る。ふと、ふたつ隣の取調室が開いて中から男たちが出てきた。

 目が合う。

 一瞬、相手が身構えたように感じたのはレザーを異質なものだと判断したからだろう。そばにいる麻薬取締官に気づき、合点がいったように緊張を解いた。

雀堂じゃくどうさん」

 矢蕗が声を上げ、泰河が目礼する。

「おつかれさまです」

「ああ。そっちはめずらしいのを連れてるな」

「レザーっていうんですよ。このところ物騒なので」

どうもhello there

「ああ。頑張れよ」

 雀堂はレザーの肩をたたき、去っていった。

「千葉県警の公安第三課長、雀堂さんです」

 泰河がささやくように言った。

「気さくな人だね」

「過激派担当のやり手ですよ。あれが本当の顔だとは思わない方がいい。若い頃は変装して数々の組織に潜り込んだ経験を持つ内偵のプロなんですから」

 少し間をおいてから、つけ加える。

「犯人逮捕のためならなんでもやる人です。それこそ、手段を選ばずに」

 泰河は分室に帰る前に近場のコンビニエンスストアへ寄ったが、タイミング悪く駐車場がいっぱいだった。「俺が行ってくるよ」とレザーが近くの路地に停車した車を降りる。


「え? 全部?」

 無事にお使いを終えて戻ってきたレザーを、運転席の泰河は呆気にとられた顔で迎えた。

「うん。いけなかった?」

「……いえ、別に」

 レザーは泰河の態度が解せず、いぶかしむように顎を上げた。

 レジの前に募金箱らしきものがあったので、喜捨のつもりでお釣りを入れてきただけなのに。分室の入った合同庁舎前で降りた矢蕗と入れ替わりで助手席ショットガンに移ったレザーは「それで」とたずねた。

「目的地は?」

「船橋市。被疑者の売人が常連だったバーが駅前にあるので、そこから当たってみましょう」

 泰河の車は千葉街道を北上し、幕張と津田沼を抜けて船橋市に入った。

 淡白なビル群の印象が強い千葉駅周辺と比べるとだいぶ賑やかな街だ。百貨店やショッピングモールがところ狭しと乱立する一方、さまざまな個人店舗がそれらの隙間を埋めるように看板を連ねている。

「県では随一の商業都市ですからね。交通アクセスもよく、住みやすい街として市民からの人気があります」

 駅近くの有料駐車場に空きがあった。泰河はシートベルトを外し、後ろを見ながらバックで車を駐車する。エンジンオフ。

「あなたは……そのままでよさそうですね」

 どういう意味か、とレザーが思っていると泰河はブレザーを脱いで後部座席の紙袋に入っていたフードつきの黒い革ジャケットに着替えはじめたのである。

 彼は指先で黒髪をかき乱し、レザーの前に身を乗り出してグローブボックスを開けた。ピンクレンズのサングラスとシルバーのネックレス。じゃらっと重みのあるシルバーモチーフの、コイン型プレートに刻まれた八芒星がレザーの目に焼きついた。

 ――ベツレヘムの星は、五芒星じゃなくて八芒星なんだ。

 昔、そんなことを言ったやつがいた。

 よくある正四角形をふたつ組み合わせた魔法陣っぽいものではなく、頂点を2つずつ飛ばして線で結んだときに描かれる、するどく尖った星型八角形。

 揺れて瞬くそれを胸元に提げ、レンズ部分が淡いピンクカラーのサングラスをかけるとすまし顔の麻薬取締官は消えてセクシーな遊び人プレイヤーがそこにいた。

「どうしました?」

「あんたもそういう格好するんだと思って」

「そりゃあ、しますよ。仕事ですから」

 どうやら一般とは普通の定義が逆らしい。彼にとってはこちらが仕事着なのだ。泰河は洒落っ気を出し、革ジャケットの胸元をつまんで軽く持ち上げる。

「ああ、それともこの格好なら“tiger”っぽいですかね?」

 レザーは肩を竦めた。

「いや、全然」

「おやおや」

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