2.千葉中央分室Ⅰ(1)

 07:00。

 床に投げ出された携帯電話端末スマートフォンがアラームを鳴らし始めてから結構な時間が経過している。腕を伸ばし、手探りでそれを黙らせた後でレザーはようやく冷たいビニルタイルの床に直接敷いた薄いマットレスと毛布の合間から這い出した。

 中東の乾いた日差しに焼かれてぱさついた前髪が視界に入るのが邪魔で、何度もかきあげる。そろそろ切りたいが、まだこの国の勝手がわからない。

 隣のビルの鮮やかなターコイズブルーの壁面が触れそうなくらい近い距離にある窓を引き開け、大きく開いた口からこぼれ出しているバックパックの中身をかき回してタオルだけを掴み出す。ワンルームを出るとすぐ目の前にある階段を無視して(ここは4階だ)、洗面所の隣にある共用シャワールームに姿を消した。水音が数分続いた後、髪を拭きながら出てくる。

 部屋に戻ったレザーは、もうすっかり色が抜けきって白っぽくなったライトブルーのジーンズに足を突っ込んでから、白い無地の半袖Tシャツを頭から被った。裾を引っぱり下ろしながら冷蔵庫を開き、ナイフで切れ目を入れた買い置きのコッペパンにチーズとハーブ、ピクルスを挟む。そうして出来上がったサンドウィッチを齧りつつ、窓を閉め、床から拾い上げた携帯電話端末をポケットに入れる。

 仕上げにオーバーサイズの古着ヴィンテージらしく褪せてくすんだミントグレーのブルゾンを両肩にひっかけるようにして羽織り、レザーは部屋を出た。 


「依存ってのは結局のところ逃避本能が形を変えてあらわれた現象なんだよ。人間がなにかをやり続ける理由なんてひとつしかない。嫌なことから目をそむけるためさ」

 関東信越厚生局麻薬取締部“千葉中央分室ちばちゅうおうぶんしつ”のプレートが出ている合同庁舎の一室からは白いフェリーが行き交う千葉港を一望できる。

 自分の事務椅子を窓際まで移動させた捜査課長の壱谷は窓の外へ垂らした腕を軽く揺さぶった。煙草が吸いたいというジェスチャー。しかし残念ながら市庁舎内での喫煙は禁じられている。ちなみに今日は、数種類の色彩をペンキのようにぶちまけたアブストラクトなサテンシャツに膝の抜けたブラックデニム。

「好きだから続けることもあるでしょうに」

 反論したのは机に頬杖をついた若い男だった。育ちのよさそうな細面とは裏腹にハイブランドのトラックスーツを着て、根元を黒く残した金髪に染めている。パイソン柄のエアマックスを履いた足を退屈そうに組み合わせた格好は、壱谷と同じく公務員のイメージからはほど遠かった。

「好きなことをやらないでいるのは不快だろ?」

「へりくつだなあ」

 相手が上司であろうと忌憚なく言い返す係員の名前が小神野おかのということを、レザーは泰河から教えてもらっていた。

 無精髭の愛煙家スモーカー壱谷課長Ichiya-katyoで、半端な金髪ブロンド小神野さんOkano-san。彼らの公務員としては奇抜な格好は潜入捜査や内偵を行う必要がある捜査員としてはふさわしいのだそうだ。薬物が取引されるような現場では逆にコンサバティブな格好のほうが浮いてしまうのだろう。

「俺からしたら、ヤク中なんてみんな好きでやってるようにしか見えませんけどね。ばか高い金払って、犯罪者になってまでハマる気分はわかんないなぁ」

 ぼやく小神野の席は課長席に向かって左右を向かい合わせに並べた4つの机のうちの右手側後ろにある。彼の正面が泰河の机だが、いまは留守。さらにその隣、小神野と斜向かいになる左前側の席では矢蕗が黙々と書類を片付けていた。最後のひとりは出張中だ。

 レザーは少し離れた窓際で事務椅子に腰かけ、彼らの会話をラジオのように聞き流す。

 壱谷は正直な小神野に苦笑し、話をつづけた。

「ところが、そいつが一大産業として巨大な闇市場を形成しているってわけだ。年間売上高は3千億ドル以上。全世界に2億5千万人もの消費者を抱えるビッグビジネスだよ」

 その時、部屋のドアが開いて泰河が戻った。

「先日逮捕した被疑者ですが、検察への送致が終わりました」

「ああ」

 壱谷が労いの言葉をかけるより早く、小神野が言った。

「お前は車ん中でぽちぽちパソコンやってるだけで楽な仕事だったよな。あいつ、結構暴れてさ。まだ手首が痛ぇよ」

 当てつけるように右手をぷらぷらと動かしてみせる小神野を、泰河が振り返る。

「それは大変でしたね。湿布、買ってきてあげましょうか」

「……あのさ」

 せいいっぱいの嫌味を軽く流され、小神野は低い声ですごみながら腰を浮かせかけた。だが、壱谷が割って入る。

「湿布代は経費でいいぞ。コンビニ行くならついでに煙草買ってきてくれ。セブンスター」

「これから矢蕗さんと出かけるので、その帰りになってもいいですか?」

「例のやつか。構わんよ、俺がいなかったら机の上にでも置いといてくれ」

 すでに矢蕗は上着に袖を通して、出発の準備をはじめている。壱谷に頷いた泰河はもうひとつ上司の許可を求めた。

「わかりました。レザー、連れて行ってもいいですよね?」

「ああ。いろいろ見せてやれ」

 泰河は頷き、レザーに向かって招くように上向けた人差し指を軽く曲げる。

「レザー」

 ようやく、わかる言葉がかけられた。

 頭の後ろで手を組み、彼らの会話を眺めていたレザーはすっくと立ち上がり、部屋を出る矢蕗と泰河の背を追う。

「ち」

 苛立たしげな舌打ちを横目に通り過ぎ、廊下に出たところで吐き出された矢蕗の深いため息に顔を上げた。

「小神野、まだお前にああなのか」

「まだというか、さらにというか」

「お前は平気なの?」

 ブリーフケースを肩にかけ直し、泰河は軽く微笑んだ。

「小神野さんて世間しらずなところがかわいいじゃないですか。いじめられがいがあります」

「よく言うわ」

 ほとんど半笑いで矢蕗が言い、ずっと蚊帳の外だったレザーを振り返る。

「えーと、なんていうかな。complexコンプレックス? 小神野が、こいつに」

 そして、さっき出たばかりの部屋と泰河を交互に指差してcomplexと繰り返した。矢蕗の説明はつたない英語と日本語が入り混じっていて聞き取りづらい。

「どうして?」

「ええと……なあ、学歴ってなんていうんだ?」

Academicアカデミック backgroundバックグラウンド

 泰河がこちらは流暢な英語で答えた。

「ああ、それだ。やっぱり学校で少し習ったくらいじゃ、全然英語なんて話せないな。つまりさ、小神野は自分よりいい大学を出てる泰河に学歴コンプがあるんだよ」

 そもそも、と矢蕗は苦笑する。

「薬学部の何割かは医学部コンプだったりもするんだけどね。医学部じゃ偏差値が足りない時に次善の策で薬学部を選ぶ学生っていうのがそれなりにいるんだよな。ほら、マトリには薬学部出身が多いからさ。俺と小神野もそう。でも、泰河は専攻が全然違くて――」

 矢蕗の視線を受けた泰河が後を継いだ。

理学部情報科学科Information Science

「そうそう。パソコンに詳しいから、インターネットを使った捜査では助かるんだよな。この間の逮捕劇も、こいつが薬物密売人になりすまして違法動画制作者に仕事の依頼を持ちかけたんだ。――って、俺の言ってることわかる?」

「少し」

 レザーは首を少しだけ傾けて微笑み、できるだけ平易な言葉選びを心がけて言った。矢蕗の英語は半分ほどしか理解できなかったが、小神野の泰河に対する非好意的な態度が嫉妬に基づくことはなんとなく理解できた。

 3人はエレベーターで駐車場に降りると、白のインプレッサに乗り込んだ。運転席に泰河、助手席に矢蕗。後部座席に置いてあった紙袋を端へ除けて真ん中に座ったレザーに泰河が言った。

「シートベルトして」

 レザーは言われた通りにベルトを引っぱり出した。

「でもさ。こんなのしてたら、いざって時に動けなくない?」

 腰の脇でかしゃんと装着しながら聞くと、インナーミラー越しに泰河と目が合った。

「しないと道交法違反になります」

「なるほど、こいつも法令遵守ってわけね」

 素直に引き下がるレザーをちらっと見てから、矢蕗が泰河に囁いた。

「彼はどう?」

 名前を言わなかったのは本人に聞かれたくなかったからだろう。

「イラン人の警備員コントラクターはめずらしいですね。日本にも外国人の警備員が多く入ってきていますが、ほとんどは軍隊経験のある欧米人か東南アジア系が多いですから」

「もう何回か現場に連れて行ったんだろ?」

「わりといいですよ。言われたことには素直に従いますし、口が堅そうなところも気に入りました」

 うわ、と矢蕗が軽く目を剥いた。

「お前、節度は守れよ」

 声色もここまで落とすと、ほとんど口パクに近い。

「わかってます」

 泰河は皆まで言わせずに車のエンジンをかける。

 滑るように走り出してすぐに、頭上をモノレールの真っ青な腹が通り抜けていった。白く塗られた軌条レールが湾岸道路を越えて立体交差するポイントはとてもアクロバティックだ。

 ふと、道路の脇を見ると物騒な落書きをされた看板が何枚もあった。その前には横断幕を持った学生たちがなにかを抗議している。そんな彼らを歩道からどかせようとしているのは、警察官ではなくて紺色の制服を着た民間の警備員たちだった。

 高架下ガーダーブリッジには雨風を避けて段ボールの小屋を作り身を寄せ合うホームレスの姿もある。

「日本もすっかり紛争地帯めいてきたからなあ……」

 矢蕗が独り言のようにつぶやいた。

 泰河の運転する車はモノレールの軌条に沿って北上し、右折して国道14号に乗る。あとはそのまま接続される国道51号をゆけば、いくらも走らないうちに目的地が見えてくるはずだという。

「治安の悪化した都内を避けて、すでに文化庁は京都、消費者庁は徳島へ拠点を移してる。過熱する首都機能移転論、中国企業による臨海副都心部の不動産買収――」

 レザーには、彼らの話す言語はひどく淡々と聞こえる。

 ほとんど抑揚がなく、間延びしない。一定のリズム。よく耳を澄ましても、名詞と助詞の区別さえあやふやだ。

 矢蕗が語る間、泰河は一言も発しなかった。

 ゆったりとした姿勢でステアリングに手をかけ、前だけを見据えている。彼の運転はとてもスムーズだ。危ういところがまるでない。

「反政府運動が活発化して、半年前も与党の県議が襲われたんだとか。警察もストライキで職場放棄してる部署も多い。俺たちの身を守るためにも警護は必要だよ」

 その時、泰河の携帯が震えた。

「出ないのか?」

「ええ」

 呼び続ける携帯をよそに、泰河はそっけなく言った。

「構いません。ストーカーみたいなものなので」

「なんだそれ」

 冗談だと思ったのだろう、矢蕗はそれ以上追及しなかった。それに、ものものしく高い塀が前方に見えてきたせいもある。

「すごい塀だろ」

 ビッグウォール。

「千葉刑務所だよ。同じ敷地内に被疑者や起訴された被告を勾留しておく拘置所がある。あっと、拘置所ってなんて言えばいい?」

「――detentionディテンション centerセンター

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