第42話 怪物

【前書き】

大変お待たせしました。

冒頭の文と関係するシーンは、21話「再会とノアの回想①」になります。


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 ノアにとって、四十四年前のその日の出来事は忘れようもないことだ。


 ――――ノア‼


 『サン・ルトゥールの里』の北に位置する『帰らずの谷ヴァル・サン・ルトゥール』にて。

 ノアの父親が、張り裂けるような声で幼い息子の名を呼んだ。


 ノアが振り返ろうとしたとき、ノアの父は既に彼の体を片腕で抱えていた。

 父親のもう片方の腕はその直前に失われていた。ノアをかばった際に、谷から産まれたばかりの怪物に食い千切られてしまったからだ。


 当時のノアは、父の背に隠されるまでのわずかな間で、怪物の姿を垣間見た。


 真っ赤な鱗に覆われた双頭の巨大蛇。

 通常、尾になるべき部位にも頭を持つ異形の蛇。

 それが〝怪物のベランベラン・ラ・モンストル〟と呼ばれる忌まわしき存在だとノアが知ったのは、両親を失ってから一ヶ月後のことだった。


 あの悲劇の瞬間から今日に至るまで、ノアがその怪物――〝ベラン〟の姿を忘れたことはない。



 時は戻って、フラヴィとアロイスが遠目に赤い光の柱を観測するよりもほんの少し前の頃。


 レティシアとノアの二人は、本陣の奥に逃げ込んだエルフ軍の総大将――ヴィヴィアン=バラントンを追跡していた。

 二人は、ユーグを始めとする腕利きのエルフ達を退けた後、休むことなくヴィヴィアンの足取りを辿たどった。そして、間もなく彼女に追いつくというところで、二人の眼前で唐突に大きな赤い光の柱が立ち昇り、天を貫いた。その光の柱の根元と見られる場所は、ヴィヴィアンが逃げた先と一致していた。


「……な、なんだ。このとんでもない魔力は……?」


 赤光の発生源と思われる場所に膨大な魔力を感知したレティシアが、おののくように言った。

 同様に魔力を感じ取ったノアも顔に冷や汗を浮かべる。


「急ごう」

「ああ」


 ノアが促し、二人は自然と緩んでいた足並を再び速める。

 そして、辿り着いた先でそれ・・の姿を視認したノアは、驚愕して目を見開く。


「――なっ‼ あいつは……!」


 赤い光が立ち昇った足下には、巨大な怪物が姿を現していた。

 全身を真紅の鱗に覆われた双頭の巨大蛇。

 それは、ノアの記憶の奥深くに刻みつけられた仇敵――〝怪物のベランベラン・ラ・モンストル〟そのものの姿だった。


 ただし、四十四年前のベランと比べれば、大きさはかなり小さい。人でいえば、大人と小さな子供ほどの差があった。それでもなお、その怪物は大人十人分を悠に越えるほどの巨体を有していた。


『――――グルルオオォォォッッッ‼‼‼‼』


 ベランは双頭を高く持ち上げ、大気をつんざくような咆哮ほうこうを上げた。まるで、封印から解放された歓喜を表すかのように。

 それはもはや、広範囲に被害をもたらす音波兵器だった。


 ノアとレティシアは、咄嗟とっさに風の防壁を展開してその大音声による衝撃を防いだ。

 ベランのすぐ近くにいたヴィヴィアンも同様にして被害を避けていたが、周囲にいたエルフの魔導師や兵士達は少なくないダメージをこうむっていた。


「……あの化物は、いったい……?」


 レティシアは怪物の威容に圧倒されながら、疑問を口にした。彼女はベランの姿を見ても、それが『帰らずの谷』の怪物だとは気づけなかった。ノアと同い年の彼女は、四十四年前のベラン討伐戦には参加していないからだ。


「……ベラン」

「え?」


 ノアが短く答えを返したが、レティシアにはすぐに理解することができなかった。


 そのとき、駆けつけた二人に気づいたヴィヴィアンが振り返り、レティシアらと十間ほどの距離を置いて向かい合う。

 ヴィヴィアンは口角を持ち上げてあやしい笑みを浮かべる。


「――あら、遅かったわね」


 レティシアは一歩足を踏み出し、問いを発する。


「バラントン! この化け物は何だ!」


 その問いを聞いたヴィヴィアンは、声を上げて可笑おかしそうに笑う。


「ウフフッ! レティシアは知らなかったかしら? こいつの名前は〝怪物のベランベラン・ラ・モンストル〟。大昔から何度も私達『サン・ルトゥール』のエルフの手を焼かせている怪物だよ」

「ベラン!? これが、あの……!?」


 知識としてはベランの存在を知っていたレティシアは、ヴィヴィアンの言葉によって眼前の怪物がそれなのかと戸惑った。

 気分が良くなってきたのか、ヴィヴィアンの解説は続く。


「そうよ。元々は『帰らずの谷』の魔力を二百年吸って産まれる化け物。その核となる存在を捕らえて、魔力を注いで育てたのさ! ……思ったよりもだいぶ早いお披露目ひろめになったから、まだ〝幼体〟の域だけどねえ。それでも、お前達やここらの人間どもぐらい、十回は皆殺しにできるだけの力は持っているわ!」

「〝幼体〟だと!? この大きさでか……!」


 レティシアはベランの巨を見上げながら、ヴィヴィアンの言葉に驚嘆した。


 この怪物――ベランこそが、ヴィヴィアン達が万一の事態に備えて用意していた切り札だった。

 もうヴィヴィアンには後がない。ベランの召喚は彼女にとって、乾坤一擲けんこんいってきの一手だった。


「さあ、ベラン! 手始めにそこの二人から片付けてしまいなさい!」


 ヴィヴィアンがベランに命じる。

 ベランのような怪物を完全に制御することはできない。しかし、召喚主であるヴィヴィアンだけは例外的に、ある程度ベランの動きを誘導することができた。

 ベランの気まぐれによっては、味方が攻撃を受けることも十分にあり得る。事実として、先程の咆哮による被害はエルフ軍側の方が大きい。その意味で、怪物の召喚は両刃もろばの剣でもあった。


 ヴィヴィアンの命令を認識したベランが緩慢に二つの首を動かし、レティシアとノアに視線を定める。その両の口からちろちろと紫色の舌が覗いていた。


「くッ……!」


 レティシアは思わず一歩足を後退させながら、怪物に対して身構えた。

 それに対し、ノアの動きは鈍かった。


「……魂が無い……? ……見せかけだけの虚仮威こけおどしか……」


 ブツブツと小声で何かをつぶやくノアは、心此処ここにあらず、という様子にも見えた。

 そんなノアの様子を見て、レティシアは彼とベランの因縁を思い出す。


(――そうだ。確か、ノアの両親はベランに……)


 一方、ヴィヴィアンもノアの様子が常と異なることに気づいた。

 ヴィヴィアンはそんな彼を揶揄からかうように声を掛ける。


「……あら? ノアったら、そんなに神妙な顔をしてどうしたのかしら? ――ああ。そういえば、あなたの両親はベランに殺されちゃったんだっけ。かわいそうにねえ」

「――――」


 ヴィヴィアンによる上辺だけの同情の言葉を聴いて、ノアの表情が硬直した。

 レティシアは、心無しかノアの周囲の気温が下がったように錯覚した。


「……貴様、馬鹿にしているのか?」


 低い声でそう返したレティシアに対して、ヴィヴィアンは小気味良さそうに笑う。


「そう聴こえたかしら? ……フフッ。ごめんなさいね。そんなつもりはなかったの」


 あくまで嘲笑ちょうしょうするような態度を崩さないヴィヴィアンに対し、知らずレティシアの拳に力が入った。


 ――ブチュンッ


 そのとき、三人の頭上で何かがじ切られるような大きな音が響いた。


「……え?」


 目を丸くしたヴィヴィアンの顔にぴちゃりと緑色の液体がかかった。


 ドスンと重々しい音を立てて、赤い怪物の首が地面に落ちた。紛れもなく、ベランのものだ。「何が起こったのか、全く理解できない」――目を見開いたままの怪物の頭部は、まるでそう訴えているかのようだった。

 その断面から緑色の血液が溢れ、地面に染みを作る。


「ヒィッ……!」


 ようやく事態を認識したヴィヴィアンは、恐怖に身を震わせた。


「〈空間破断ディメンジョン・ブレイク〉は通るか……。これなら、俺一人でもやれそうだな」


 それはノアの仕業しわざだった。彼はエルフの魔導師も知らないオリジナルの魔法を使い、ベランの片方の首を切り落としたのだ。


『キシャアァァァッッ‼』


 ベランのもう一方の頭が悲鳴のような叫び声を上げた。

 見れば、怪物の首を切り落とされた傷口から急速に肉が盛り上がり、新たな頭部を形成しつつあった。


「再生してるぞ!」


 それに気づいたレティシアが指を差して叫んだ。

 レティシアに続いてその様子を確認したヴィヴィアンは、ほっと胸をで下ろす。


「ざ、残念だったわね! このベランが、たったそれだけの攻撃でやられるわけがないでしょう?」


 ヴィヴィアンが再び二人に対して居丈高いたけだかな態度を見せるが、心なしか先程よりも自信が揺らいでいるように見えた。


 そんなヴィヴィアンの言葉を聞いてか聞かずしてか、ノアは表情に笑みを浮かべていた。それは、その顔を見たヴィヴィアンやレティシアが思わずぞくりとするような酷薄な笑みだった。


 ――そう来なくっちゃな。


 それがノアの率直な心境だった。

 ノアにとって、仇敵と同種である怪物との戦いが簡単に終わらないことは、むしろ望むところだった。


「レティシア」


 ノアに呼び掛けられたレティシアには、彼が言いたいことがわかっていた。


「ああ、わかっている。バラントン殿は私に任せろ」

「頼む」


 打てば響くような返事を得たノアは、レティシアに短く応じた後、再びベランに対して意識を集中する。


「――さて、再生できなくなるまで切り刻むか、別の攻撃を試すか……。折角の機会だ。あっさり死んでくれるなよ?」

『グルルルル……』


 最早レティシアには、怪物が怯えているようにさえ感じられた。



 四百年。

 それは、モルガン=サルトゥールとロドルフ=アンブローズという二人のエルフが、『サン・ルトゥールの里』で共に生きてきた歳月の長さだ。

 若い頃は互いに切磋琢磨せっさたくましてきた二人だが、何かを懸けて本気の勝負をする機会は少なかった。お互いに相手の能力、性格、得手不得手をよく把握していたから、わざわざ争う必要もなかったのだ。


 そんな二人が互いに向かって本気で魔法を撃ち合う場面が、この百年で見られただろうか。

 そのようなある意味で希少な戦いの一幕は、突如として天に立ち昇った赤い光と、轟くような魔獣の咆哮によって横槍を入れられた。


「なっ! あれはっ……!」


 魔法を中断して驚きの声を上げたモルガンは、瞬時に思考を巡らせ、怪物の正体に見当をつけた。だからこそ、彼は怒りをあらわにした。


「貴様ら、アレ・・を谷から出しおったのか……!」


 激昂げっこうするモルガンを前に、ロドルフは涼し気な顔で鼻を鳴らす。


「フン、もうアレを出すとはな。よほど切羽詰まったと見える」


 他人事ひとごとのように言うロドルフに対して、モルガンが憤りを隠すことはない。


「ロドルフ! 貴様、それほど人間が憎いのか!? アレが一暴れするだけで、どれだけの犠牲が出ると思っておる!」


 それでも、ロドルフが動じることはなかった。


「……これはみそぎじゃよ、モルガン。恨むなら、これまでひたすら過去に目をつむってきたお主自身を恨むことじゃ」

「なっ……!」


 ロドルフのその言葉にモルガンは絶句した。それはモルガンにとって耳が痛い言葉だった。

 続けてロドルフは、ある人物の名前を挙げる。


「――エルネストのこと、よもや忘れたとは言うまい」


 それはモルガンやロドルフにとって、苦い記憶と共に脳裏に刻まれたあるエルフの名前だった。


「ロドルフ、貴様……」


(――やはり、ロドルフも……。だから、此奴こやつはヴィヴィアンに協力したのか……)


 ここでロドルフがその人物の名を出したことで、モルガンの中でに落ちるものがあった。


 モルガンは一つ大きな息を吐く。

 それはそれとして、彼女らの蛮行をこのまま見過ごすわけには行かない。


「――今さら復讐ふくしゅうなどして、何の意味があるというのだ」


 そのモルガンの言葉を聞いて、ロドルフの杖を持つ手に力が入る。

 ロドルフは声を荒げて言う。


「貴様がそれを言うか……!」


 ロドルフは憤懣ふんまんやる方ないといった様子で、怒りに身を任せるようにして体内の魔力を高め出した。


「むぅ……」


 それに呼応してモルガンも杖を構え、同様に魔力を練り上げる。


 二人の間で途切れていた魔法戦の演目が再び始まるかに見えたそのとき。

 ――音もなく、ロドルフの背後に回り込む影があった。


「――御免」

「……ぐぁっ!」


 延髄に何者かの鋭い手刀を受けたロドルフは、小さなうめき声を上げて崩れ落ちた。

 下手人である壮年のエルフは、倒れたロドルフを見下ろし、残心の姿勢を保った。


 エルフの老爺二人の戦いは、こうして呆気なく幕を下ろした。

 その周囲で行われていたイヴァンと他のエルフ兵達の戦いも、ロドルフが倒れたことで間もなく終結した。


「よくやった、シモン」

「ハッ……」


 モルガンはロドルフを倒したエルフ――シモンの功を簡潔にねぎらった。

 シモンは会釈を返しつつ、大蛇の怪物の方を気にする様子を見せる。


 それに対し、モルガンは意外にも落ち着いた態度を見せる。


「次はアレをなんとかせねばな。――なに、無理やり魔力を与えたのだろうが、本来のアレよりは幾分劣るようだ。魔女殿もおることだし、なんとかなるじゃろう」


 魔女――キュルケの実力をおぼろげに知るモルガンに焦りは少なかった。


 しかしそんな彼も、既に集落を出奔したノアがたった一人でその怪物の相手をしているとは、さすがに想像し得なかった。

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