お稲荷さまの正体は誰なのか
【一度、会ってお話できませんか?】
これは完全に無視されたかなあ、と諦めてかけていた矢先のことだ。
待ち合わせ場所は目白駅の近くにあるオシャレなカフェ。
巨大繁華街である池袋と、学生の街である高田馬場に挟まれていながら、上品なイメージを崩さない目白という街。
完全なる被害妄想であることは自覚しているが、この街に来ると――ほとんどそんな機会はないけど――自分が紛れ込んだ異物のような気分になってしまう。
駅から少し歩いたところで目的地である『
カフェに入って店内を見渡すと、見覚えのある女性がソファに座っていた。
肩にかかっている少しカールした栗色の髪。
涼しげな目元に、スッと通った鼻筋。
短い丈のシャツに、タイトなロングスカートの組み合わせは今年の流行だろうか。
美人、と言って差し支えないであろうその容姿は、確かに
現役の大学生で学年は俺の一つ上、年齢も同じく一つ上。
そのはずなんだけど、とてもそうは見えない貫禄がある。
そう。例えるなら仕事のできる女上司といった雰囲気。
もちろん俺は、本物の女上司なる存在と会ったことがない。
あくまでもイメージだ。
音無さんが座っている席に向かい、「どうも、
「潜木くんって、そんな顔してたんだ」
年上美人の整った綺麗な顔が、俺の顔を覗き込んでくる。
恥ずかしいやら、照れるやらで俺は思わず顔をそむけてしまった。
「あ、ごめん、ごめん。この前はお面で顔が見えなかったから、つい……。まずは座って。飲み物はコーヒーでいい? それとも紅茶? ここはケーキセットも美味しいよ。遠慮しなくていいからね、私のオゴリだから」
メニュー表をこちらに向けながら、音無さんがまくし立てるように喋る。
その勢いに思わず圧倒されてしまう。
さらに圧倒されたのは、視界に飛び込んできたメニュー表の中身だ。コーヒーが一杯1,000円だとか1,200円だとか書いてある。思わず二度見してしまった。
苺のショートケーキセットは1,700円。誰がこんなものを頼むのかと思ったら、周りの席にいる人達の半分くらいはケーキセットだった。
こんなものを奢られてしまっては、感じなくてもいい負い目を感じてしまいそうだ。俺はメニュー表を音無さんの方へと押しやり、こちらの要件を伝えた。
「そんなことより、動画の話をしましょうよ」
「そんなことより、オーダーが先だよ。それとも潜木君は、カフェに来て何も注文せずに居座ろうなんて暴挙を企てているのかな?」
うっ、と言葉に詰まる。
これはどう考えても彼女のほうが正しい。
お店のことを考えれば、水だけ飲んで席に居座る客なんてジャマ者でしかない。
というか、そんなヤツは客ですらない。
「じゃ、ブレンドコーヒー。お金は自分で払うんで大丈夫っす」
俺はメニュー表の中で一番安い――それでも800円(税抜)もする――ホットコーヒーを選んだ。なんでこんなに高いんだ。大学にあるコーヒーチェーンのカフェなら二杯頼んでもお釣りがくるぞ。
「そんな遠慮しなくていいのに」と言いながら、音無さんは慣れた様子で、店員にブレンドコーヒーと苺のショートケーキセットをオーダーする。
「さて、例の動画を消して欲しいって話だったよね。もちろん私のチャンネルに上がっている動画は消せるよ。何なら今、この場で公開停止にしてもいい……んだけど、本当に消していいの?」
「え……? どういう意味すか?」
予想していなかった回答に、今度は俺の目が丸くなった。
その反応がおかしかったのか、音無さんはくすりと笑顔を見せる。
美人な上に笑顔は可愛いとかズルい。
「動画を消してほしい、ってことはダンジョンに潜っていることを誰かに、っていうか多分家族に隠してるんでしょ。それなら動画を消すのは逆効果なんじゃないかなあって」
こちらの考えはバレバレだった。
いや、それは大した問題じゃない。『動画を消すのは逆効果』というのは一体どういう意味なのか。
「ブレンドコーヒーと、苺のショートケーキセットになります」
トレイを持った店員さんに話の続きをさえぎられてしまった。手際よくテーブルに並べられる二つのコーヒーと一皿のケーキ。
ふわりと漂うコーヒーの香り。
缶コーヒーとは比べ物にならない香ばしさ。だけど残念ながら、俺の貧乏舌ならぬ貧乏鼻では、チェーンのカフェで出てくるコーヒーとの違いまではわからない。
音無さんはゆっくりとコーヒーをすすり、続きを話しだした。
「あの動画は不特定多数のネットユーザーに切り抜かれて、すでに世界に拡散している。あ、潜木くんは自分が『お稲荷さま』って呼ばれてることは知ってる?」
例のくそダサい呼び名が、ここでも出てくるか。
俺は苦笑いを浮かべながら、無言でうなずく。
「さすがに知ってるか。端的に言うとあの動画は今、ダンジョン配信界隈で話題の中心になってる。そんなタイミングで、私のチャンネルに上がっている元の動画が消えたら、さてさてどんな憶測が飛び交うか……。政府、もしくはハンター連盟からの圧力だとか、反社会的勢力からの脅しだとか、何の根拠もないウワサが無責任に広まっていくのがインターネッツ。そうなったら、大衆が求めるものは一つだよ」
白くて細い人差し指をピンの伸ばし、音無さんはたっぷり間を取って言葉を続けた。
「お稲荷さまの正体は誰なのか」
恐らくこのとき俺は、なんだそんなことかという顔をしていたのだと思う。事実、お面を被っているのだから、正体がバレることはないと思っていた。
そんな俺の態度を見て、
「ネットには特定班って呼ばれるヒマな連中がいてね。そいつらは小さな情報を集めて、個人情報を丸裸にするのがとっても得意なクソ共だ。君がこれからもダンジョンに潜るのなら、きっと一ヶ月もしないうちに、君の名前も、大学も、住所も、家族構成も、何もかもがネット上で公開されることになるだろうね」
「それは困る! ……っす」
しまった。大声が出てしまった。
周囲の視線がこちらに向いているのを感じる。
だが、俺が受けた衝撃はそれだけのものだったのだから仕方がない。
俺だけでなく、妹の
自分の顔から体温が抜けていくのがわかる。
恐怖と驚きによって、血の気が引いていく感覚。
その反応を待っていた、とばかりに音無さんが目を輝かせた。
「そうだよね。そこで潜木くんにひとつ、ご提案があります」
俺の目を見る音無さんの顔は、獲物を仕留めたときのハンターのような顔をしていた。
きっとここまでの流れは全て、彼女の思惑通りだったんだ。
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