このネコ譲ってもらってもいいっすか?


 帆乃夏ほのかはムチを構えて臨戦態勢を取った。

 勝ち目なんて一筋もないけれど、逃げる場所が無いのだから仕方がない。


 日頃から上層でエンジョイ配信をしている帆乃夏の実力では、アリVSゾウどころか、プランクトンVSクジラの如き戦いだ。

 クジラは海水と一緒にプランクトンを飲み込む。

 敵と認識される間もなく、お気軽に命を狩られてしまうほどの、圧倒的な戦闘力格差がそこにあった。


 死中に活を求める、なんて言葉があるけれど。

 この状況で生き残る道を見つけられる人なんて、一体どれくらいいるんだろう。


 手も、膝も、体中のあらゆる場所がガクガクと震えて止まらない。

 ベタッとした嫌な汗がふき出している。


 怖い、怖い、怖い。

 死にたくない、死にたくない、死にたくない。


 人生はこれからが本番なんだ。

 こんなところで終わりだなんて、認められない!


 そんな帆乃夏の気持ちを知る由もなく、体中に梅花紋を背負った死神は、じっと帆乃夏の顔を見つめていた。襲ってくるでもなく、無視するでもなく、彼女の前から一向に動こうとしない。


 かといって逃がしてくれる気もないようで、帆乃夏の動きに合わせて少しだけ体の重心をズラしているのがわかった。


 モンスターにそんな感情があるのかはわからないけれど、もしかするとヤツは、逃げられずに怯えている哀れな生き物を見て楽しんでいるのかもしれない。


「ああああああああ!!」


 お腹の底から声を出して、恐怖の感情を必死で押さえつける。

 少しだけ震えがおさまったような気がした。


 帆乃夏は右手に力をこめて、ムチの柄を握りしめた。

 こちらが攻撃態勢に入ったことは、当然向こうも気づいているだろう。


 しかし、それでもジャガーゴイルは動かない。

 プランクトンのあがきなど避けるまでもない、と思っているのかどうかは知らないけれど、ジャガーゴイルは微動だにすることなく帆乃夏の顔を見つめていた。


「舐めんじゃないわよ、このネコモドキがああ!!」


〇ほのりん、ダメだって!

〇でも、このままじゃ逃げられないだろ

〇嫌だよ。俺、ほのりんが死ぬのなんて見たくない!

〇大事故の現場リポートをやっていると聞いて

〇ほのりんは死なねぇよ!

〇助けはまだ来ないのか

〇ここをどこだと思ってんだよ、奥多摩だぞ

〇八王子からでも一時間以上かかるからな

〇たまたま、今このダンジョンにプロハンターがいることを祈るしかない


 無感情に浮かぶドローンのカメラを通して、視聴者の感情的なコメントがアームモニターに次々と流れてくる。

 イレギュラーに遭遇したことを聞きつけた野次馬が、帆乃夏のチャンネルに集まってきているらしい。


 皮肉にも同時接続は10,000人を超え、確認するまでもなく帆乃夏のチャンネルの最高記録を更新していた。さながら公開処刑のように、帆乃夏は衆目に晒されていた。


 帆乃夏はありったけの力を振り絞って、電撃をムチへと流し込んだ。

 巷では『ダンジョン産』と呼ばれる特別な武器であるこのムチは、自然現象ナチュラルタイプのスキルを伝導させてくれる性質を持っている。


 このムチに込められている電撃は、帆乃夏の全力フルパワー。


「おしおきの時間よ、覚悟なさい!」


〇まさかの自殺志願女王様

〇早くタヒんでー!

〇荒らしは帰れよ!

〇誰かなんとかしてくれええええええ!!!


 女王様モードで気持ちを奮い立たせ、帆乃夏はムチを放った。

 強力な電撃を纏ったムチがジャガーゴイルに向かっていく。


 相手は下層のモンスター。

 その中でも『ジャガー』の名を冠しているこのモンスターは敏捷性が高い。

 帆乃夏のムチなんか、難なく避けられてしまう違いない。


 半ばヤケクソで元々と繰り出した一撃は、予想に反して敵の右前脚に命中した。


 これは別に、帆乃夏がスゴいという話ではない。

 相手が避けなければ、こんなもの誰だって当てられるのだから。


 ムチがヒットした瞬間、大量の電撃がジャガーゴイルへと流れ込み――霧散した。

 スモウルフのように、地面に倒れてくれるような結果を期待していたわけではないけれど、ちょっとくらいは怯んでくれよと願っていた。


 その隙にこの場を逃げることができるんじゃないか、という淡い期待を持って放った渾身の一撃だった。


 結果は――ノーダメージ。


 おそらくは電撃耐性、いや、もしかすると電撃無効かもしれない。

 ジャガーゴイルの『ガーゴイル』とは、そもそも『彫刻』を意味する言葉だ。

 あのモンスターの構造が、生物よりも彫刻に近いのだとしたら。


「はじめから……、遊ばれていただけ……か」


 ほら、やっぱり。

 生き残る道なんてどこにもなかった。


 目の前に四つ足で立っている死神が、グッと口角を上げて愉悦の表情を見せた。

 それはとてもいやらしく、おぞましかった。


 ヤツがずっと帆乃夏の顔を見ていた理由がやっとわかった。

 今、この顔に浮かんでいる、この表情を見たかったのだ。

 小さな希望にすがり、打ち砕かれ、絶望しているこの表情を。


 走馬灯のように家族の笑顔が浮かんでくる。


 ズン、と大きな音がして地面が揺れた。

 ジャガーゴイルが一歩、こちらに近づいてくる。


 帆乃夏はぎゅっと目をつぶり、二十年の人生ではじめて死を覚悟した。



「あのー……」


 すぐ近くから、ちょっと低い男の人の声が聞こえた。

 走馬灯って声も聞こえるんだっけ。

 いや、帆乃夏の父はこんな声ではなかったはずだ。


「まだ戦います?」


 ……え?

 どういうこと?

 もしかして私、ジャガーゴイルと戦うかって聞かれてる?

 走馬灯じゃなくて現実ってこと?


 混乱する頭で、帆乃夏が声のした方を見ると、キツネらしきお面を被った人がすぐ横に立っていた。


 この人物はどこから現れたのか。

 後ろは壁。目の前には逃げ道を塞ぐように立っているジャガーゴイル。


 その人はまるで壁でも抜けてきたかのように、忽然こつぜんと姿を現した。


「もし戦わないなら、このネコ譲ってもらってもいいっすか?」

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