19.予選リーグⅡ(3)
「疲れた?」
無田の気遣う声色に、ううん、と首を振る。
「平気」
「ほんとに?」
じっと顔を覗き込まれ、杷は半歩分後ずさった。助け船を求めて既に事情を知っている他のふたりに視線を送るが、彼らはこちらのことなどそっちのけで栄養調整食品のビスケットをつまみながら前半戦の反省会を始めている。
(あいつら……!)
こういう時は助けろよと胸中で悪態をつきつつ、杷は無田の追求を逃れるべく、笑顔で頷いてみせた。
「全然平気」
「そうかなあ。第4エンドの間、ずっとぼうっとして見えたよ。それに、変なタイミングでタイムとろうとするしさ」
痛いところを突かれ、視線を泳がせる。確かにあれは自分の失態だった。
「なにかあったら言ってよ。あんまり頼りにならないかもしれないけど、俺だってこのチームのスキップなんだからさ」
これはずるい問い詰め方だ。
黙っていればこちらが無田を信頼していないということになってしまう。観念した杷は上目遣いに無田を見つめ、ためらいがちに聞いた。
「その……鶴見選手の前のチーム名ってなんて言うんだっけ?」
「え?」
無田はきょとんと両目を瞬いた。
「ほら、世界選手権で銀メダルとった時の。黄色いユニフォームのやつ。大会では岩手
「うん。そういう大会だと、個人チーム名はスキップの名字か協会名って規則になってるから。正式名はラジアンだよ」
杷はいつしか、観客席で声援を送ってくれるフィギュアスケート時代のファンを見ていた。つまり、そういうことなのだ。
「久世くん?」
「無田、俺はこの試合勝ちたい」
「どうしたの、あらたまって――」
「ラジアンの鶴見選手じゃなくて、今の鶴見選手がいるGいわてに勝ちたいんだ。この違いわかる?」
「――――」
眼鏡の向こうにある無田の黒い瞳が、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。「何言ってんの?」と今にも言いそうな彼の気持ちはよくわかる。自分でも、そう思うことの根拠がうまく説明できない。
杷は思い出したようにバッグを探り、断熱材に包まれたタッパーを取り出した。皮を剥いたキウイが入っている。
「先に食べちゃおう。あと何分?」
「あ、うん。いただきます。えっと、3分46秒だね」
プラスチックの楊枝で果実を口に運び、無田はスキップとしての口調で言った。
「後半戦の流れだけど。このまま交互に点を取ればうちは第5エンドと第7エンドが後攻になる。理想で言えば、第7エンドをブランクにして第8エンドの後攻を取りたい。そうすれば、あちらが後攻になるエンドは第6エンドだけだ。これならまず逃げ切れる」
「うん」
「この場合、大事なのは次の第5エンドで何がなんでも得点して2点差を保つことだ。カーリングの後半戦において2点差は結構大きい。それは相手もわかってるはずだ。ちゃんと逆転する気があるなら次のエンドを必ず1点に抑え、後攻の第6エンドで複数得点を狙ってくるはず」
「無田――」
彼はちょっと恥じらうように笑って、頷いた。
「相手が本気じゃないのはいくらなんでもわかってるよ。でも、手加減されて悔しいとか思うよりも憧れの選手と試合できる嬉しさの方がまさってた。これじゃ、本気を出してもらえるわけないよね。あ、キウイごちそうさま」
無田はハウスに目を向け、帽子を深くかぶり直した。
「今、戦ってるのはまだ新設されたばかりの企業チーム。個々の力はあっても、それがチームとしての形になるには時間がかかる。つけこむならそこだね」
休憩時間を終え、シートに戻る選手たちを地元テレビのカメラが追う。気づいた宅はひらひらと手を振ってから右手袋の中指を噛んで脱ぎ取った。
「どうした、皓平」
「いえ、なんでも……」
「かわいい子でもいたのかよ」
ふと観客席の方に気を取られていた壬生は、からかい好きな先輩の戯言に嘆息して言った。
「まあ、目を引いたのは事実ですけど。県外から取材に来てる記者の人かな」
「わざわざこんな地方のオープン大会を? どこだよ」
あそこ、と壬生が指を差した。
「あ」
シートに出た途端、杷は目に飛び込んできたものの正体に気づいて息を殺すようにうめいた。
「久世くん?」
「親が来てる」
「えっ、どこ? どこ?」
杷の肩を掴んで身を乗り出す無田に、「あそこ」と教える。
「あそこって、ここからじゃ遠くてよく見えな――」
最上階の端の席、ネイビーのチェスターコートを羽織った異質な雰囲気の女性が頬杖をついてこちらを見下ろしていた。緩い
杷の視線に気づいたのか、彼女はサングラスを抜いて軽く掲げる。
理解した無田が衝撃を受けたように叫んだ。
「えっ、あれが久世くんのお母さん!? 若い! かっこいい!」
「所帯じみてないだけだよ。子育てしてないんだから」
杷は複雑な心境で答えつつ、でも、と首を傾げた。
(なんでスーツなんだろ。急な仕事でも入ったのかな。無理してこなくてもいいのに……)
ハウスでは、スキップである鶴見がユニフォームと同じ色のブラシを弄びながら試合の再開を待っていた。
「人気だね」
杷たちが出てきたのを見てにわかに盛り上がる観客席を見上げ、鶴見は素直な感じで言った。
「ずっとフィギュアスケートをやってたんです。怪我で辞めたんですけど、カーリングをやり始めた情報が出回ってしまって」
「へえ。なんて名前?」
「久世杷です」
「結構強かった?」
「それなりには」
「そうか。俺、他の競技にはあまり詳しくなくてね。でも、引退してからもこれだけファンがついてきてくれるのはたいしたものだ」
「鶴見選手も人気ありますよね。うちのスキップもファンみたいです」
「一時期ね、いけいけだった頃があったんだよ。こうやって雇われてるのもその時の名残りでね。今の社長にはアマチュア時代にいろいろと世話になったから、断りきれなくて」
「だから勝たなくてもいいんですか?」
率直な問いかけに、鶴見は興味深げな顔になる。
「面白い聞き方をするね」
鶴見はリードの宅にセンターガードを要求しながら、そんな風なことを言った。杷は仕方なさげに笑うしかない。
「だって、無理でしょう。もう過ぎ去ってしまった昔の栄光をずっと演じなければならないなんて」
つまるところ、杷と鶴見の共通点とはそこなのだ。かつて轟いたまばゆき喝采の残滓にまみれて踊り続ける。前者は心を挫かれて自ずから舞台を降りたが、後者はしがらみに絡めとられるままいまもその場に留まっている。
「…………」
鶴見は黙したままじっと杷を見つめた後、ゆっくりと歩き出してハウスを出るとセンターラインの上をとんとんとブラシで示した。
「梅垣、ヤップ!」
緩やかに曲がってくるストーンの前を梅垣のブラシが激しく掃くも、ハウスまでは僅かに短い。
「宅、ウェイトの調整が甘い」
「! すんません」
宅が驚いたように顔を上げ、頭をかきながらシートを退いた。
「いきなりやる気出した? なんで急に――」
「だから言っただろう。あの人は何を考えてるかわからないって」
「梅垣」
鶴見に呼ばれた梅垣は自分のぼやきが耳に届いてしまったのかと明らかにあわてふためいた。
「なんですか」
「このエンド、スチールを狙う」
梅垣の目が見開かれ、一気に声が低まった。
「本当ですか?」
「残り4エンド。後攻のチャンスはおそらく2回。それだと、各2点ずつとったとしても同点にしかならない。それでなくとも、相手は終盤テイクゲームを仕掛けてハウスの中をクリーンに保ってくる。その状態で複数点を獲得し続けるのは現実的じゃない。だが、この第5エンドでスチールして2:2の同点に追いついた場合、相手はどうする?」
「……点を取りに勝負をしかけてきます。ハウスの中に石が溜まるドローゲームになり、大量得点するチャンスが双方に生まれる」
でも、と梅垣ははやる気持ちを抑えるように言った。
「いいんですね? やっぱりやめたはなしですよ」
「ハンデは既に十分」
無田の1投目がコーナーガードになるのを見届けた後でシートへと進み出た鶴見は、ハウスの手前にブラシを置いた。
「え?」
ハック側のハウス脇で次の手番を待っていた無田が声を上げる。しゃがんでスタンスに入っていた宅も少し驚いた様子を見せてから、唇を引き結んで慎重にストーンをセットした。ハンドルを時計回り、10時の方向に向ける。
肩の高さはそのまま、腰を肩と平行になるように持ち上げる。ストーンごとハックにかけた脚を引き、フォワードスライドというストーンを投げる前の滑走状態に入った。彼の手を離れたストーンはゆっくりとした速度で進み、いくどか前を掃かれながら前のストーンを交わしてその後ろに回り込んだ。
(ガードストーンの後ろにもうひとつ、ガードストーンを置いてきた)
ハウスの反対側から見ていた杷は、さらにその後ろへ回り込むための指示を出す。だが、無田の2投目はやや短く、センターガードよりも右寄り、5の位置に止まった。このストーンに壬生はうまく当て、弾き出しつつ左にロールして自分のストーンをうまくガードに隠すことに成功。
「点を盗りにくる気だ」
ハウスの管理を杷から引き継ぐ際、無田が真剣な面持ちで言った。
「ああやって2つのセンターガードを縦に重ねることで、後ろに隠したストーンがさらに弾き出しにくくなる」
「どうする?」
「ウィックしてずらしてもいいけど……」
無田の要求はさきほど壬生が投げたストーンの前につけるフリーズ。だが、忍部の手をストーンが離れてすぐに、彼の口から「ヤップ!」という自己申告が迸る。
「――短い」
「3.5!」
杷の独白に間嶋の声が被さった。目標は5のあたりなので、このままではよほど強くスイーピングしなければハウスの中にまで届かないことになる。
「ウォー!」
だが、無田は逆に掃くなと叫び、ハウスの前に出て2つめのセンターガードをブラシで指した。
「ウィックに変更」
「了解」
無田の意を読み取った間嶋に頷いた時、ストーンの動きが僅かに鈍った。
「――3!」
「ヤップ! 久世くん、もっと前、曲がる方向!」
「……ッ!」
杷は左側から掃く間嶋の手前に回り込み、ストーンの曲がってくる軌跡にそってブラシを激しく前後に動かした。
やっとのことでセンターに置かれた2つめのストーンにぶつかり、互いに左右へ離れていく。
荒い息をつき、スナップを外した上着の襟をあおいでいると忍部が軽く手を挙げて「すまない」と口にした。もともとあったストーンは左に寄せられたが、投げたばかりのそれはあまり距離が空かずにセンターラインとハウスの縁にぎりぎりかかる位置で沈黙している。
「半端な位置だなあ」
爪を噛むような仕草で忍部がぼやく間に、杷は脱いだ上着をリンクの外のベンチへ置きに行った。
「ハウスの前にストーンが4つ。これはごちゃごちゃした展開になるぞ」
戻ってきた杷は、彼らの肩越しに壬生の投げたストーンがセンター付近にある赤いストーンの後ろへ運ばれるのを見た。
「さすが、きっちり決めてくる」
「そんなに難しい?」
首をかしげる杷に、間嶋が親指で反対側のハウスを示した。
「前から見てみろよ。全然違って見えるから」
再び忍部の番になり、ブラシを手に投げる位置まで戻った杷はハウスに描かれるストーンの配置を見てぎょっとした。こちらから見て右手側から順に、赤・黄・黄・赤のストーンが横並びになってハウスの中心部を隠している。
しかも、無田のブラシはかろうじて赤いストーンと黄色いストーンの間から見えている相手のNo.2ストーンを「次、これね」とでも言いたげに叩いているではないか。
「この狭い隙間を通すのかよ」
「少しでも幅を読み間違えたらアウト」
間嶋は器用に回したブラシをキャッチして、いつも通りの淡々とした口調で続けた。
「ウェイトが違ってもアウトだ。足元にも注意しろ。ストーンに足を取られて転ぶなよ」
「――」
杷はどきりとして整然と居並ぶストーンの無機質な
(そんなことになったら恥ずかしいよな……)
フィギュアスケートで難しいジャンプを失敗して転ぶのとはわけが違う。技がうまくいかないのは力不足だが、ストーンにぶつかって転ぶのは単なる間抜けだ。
――誰にでもできるんだから、カーリングってやつはさ。
遠く、無言でブラシを指し示す無田の表情はここからではわからない。
(無田はそう言うけどさ。俺にとっては――)
忍部がセットに入り、静かにストーンを放った。杷は間嶋と並んでそれを追いかける。無田を見ると、鋭い声が届いた。
「ラインOK!」
再びストーンに視線が戻る。
あとはウェイトだ――間嶋の手から離れたストップウォッチが腰の後ろで弾んだ。
「10!」
「ヤップ!」
やや弱い、と判断した無田の口から勢いよく指示が飛ぶ。
「お」
シート脇で見ていた宅が感嘆の声を上げた。
スイーピングはほぼ無酸素運動に近く、10エンドを通してバレーボール1試合分と同じエネルギーを使うといわれる。
(俺にとっては、小さい頃から当たり前のように滑ってきたフィギュアスケートよりもこうやってみんなでやるカーリングの方がよっぽど難しく感じるよ――!)
すり足を意識して歩幅を狭め、タイミングを計って足元にせまった赤いストーンを一息でまたぎきる。つま先立ちになった後ろ脚が宙へ浮きかけるのを、足の指に力を込め、しっかりと氷を踏みしめることでこらえた。
「通した――!」
梅垣の驚愕と同時に観客席からもどよめきが上がる。
ストーン1つ分しかない隙間を反時計回りに回転しながらくぐり抜けたストーンが行く手をはばむ黄色いストーンをティーラインの後ろへ押しやると、すぐさま無田がスイーピングを始めた。
杷はようやくひと息をつき、あごから伝い落ちる汗を手袋の甲で受け止める。
ストーンはぎりぎりのところでハウスにかかってしまったが、あれだけ下げられれば上出来だろう。
「よかったじゃないか、さっきのスイーピング」
後ろから背中を叩かれて振り返ると、忍部が笑っている。
「……へへ」
嬉しさがこみ上げてきて、杷はめずらしく相好をくずした。シートをGいわてに明け渡し、忍部と軽く拳を触れ合わせる。
「敵に塩を送るもんじゃないな」
梅垣がぼやき、宅はばつが悪そうに鼻の頭をかいた。
「相手はどうしてくるかな?」
隣に滑り込んできた忍部の問いを受け、間嶋は息を整えながら鶴見のブラシの位置を確かめる。
「ハウスにかかってる1時方向のストーンから、中にあるもう1つの赤いストーンを狙ってくる」
だが、梅垣の1投目は2つめのストーンをきっちり外へ弾き出したものの、厚く当たったがために1つめのストーンをその場に残してしまう。壬生の投げ込んだ黄色いストーンのほぼ真上、団子のように密着した位置だ。
「9でいくよ、ノーマルウェイトね!」
鶴見と入れ替わりで進み出た無田のブラシがセンターラインよりやや右サイド、4と5の間にある黄色いストーンを指し示す。
「9.02」
丁寧に杷がリリースしたストーンがホッグラインを越えた瞬間、スイーパーの間嶋がストップウォッチで計測。
(いった)
テイクアウトの際、このホッグライン間をストーンが通過する標準秒数が約9秒。ほぼ誤差のないウェイトで放たれたテイクショットは相手のストーンに接触した瞬間、矢のようにそれを打ち放った。
間髪を入れず、鶴見のブラシがハウスの外に置かれる。
こちらが置いたコーナーガードの後ろ、現在No.1となっている2時方向の黄色いストーンと平行になる位置へと梅垣がストーンを投げ込んだ。
(平行に置かれると出しづらいんだよな)
ストーンは角度をつけて弾かれるため、真横というのは1番飛ばしにくい方向なのだ。
続いて無田は10時の方向、5と6の間くらいに止まった相手のストーンにブラシを縦にして当てる。
「角度はいいよね?」
ブラシの先をたどった先には、杷が相手のストーンをテイクアウトした際にハウスの縁へ留まった赤いストーン。
「ウェイトは?」
忍部が首を傾げ、間嶋がつぶやく。
「バンパー」
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