13.予選リーグⅠ(1)

 二月最初の土曜日、午前6時。杷は祖父が玄関先で雪かきをするざっ、ざっ、という音で目を覚ました。枕元のカーテンを開けると快晴の空と眩しい朝日が飛び込んでくる。

(……大会の日の朝だ)

 嵐の前の静けさのように澄み渡った空気を吸い込み、大きく伸びをしてからスマートフォンだけを持ってベッドを降りる。寝間着のまま階段を下って居間を覗くと、もうテーブルに温かな朝食が並べてあった。

「さっちゃん、今日のお夕飯はお鍋でいい?」

 顔を洗う前に漬物をひとつ摘まみ食いしていると、洗濯機を回して戻って来た祖母がたずねた。

「何の鍋?」

 杷は楽しみにしているのがわかるような声色で聞き返す。客人をもてなすことに嬉しみを覚える気質の祖母は、洗いものをしながら明るい調子で答えた。

「牡蠣よ。4人分でいいのよね? お布団用意しておくから。他に必要なものがあったら言ってちょうだい」

 あまりスポーツに詳しくない祖母にとっては、杷のやっているのがフィギュアスケートであろうとカーリングであろうとあまり関係がないようだった。

匡子きょうこはいつ観に来るの?」

 杷の母である自分の娘の名前を出す時、彼女はいつも少し緊張したそぶりになる。

「今日の午後には行くって言ってた」

「こっちには寄らないのかしら」

「さあ。来いって言えば来るんじゃない?」

 祖母は肩をすくめ、泡立てたスポンジでやや雑に皿を擦った。

「べつに来てほしいってわけじゃないのよ。ただ、もし寄るならこっちにもいろいろと準備があるから聞いてみただけよ」

 などと素直ではないことを言い出すので、杷はこういう時に祖母と母に流れる同じ血を感じるのだった。

 洗面所で念入りに身だしなみを整えてから、居間に戻って朝食をとる。

 刻み柚を乗せた白菜と豆腐の味噌汁に納豆、梅紫蘇で漬けた半月切りの大根。杷の好きな焼きナスはまだ湯気をたてている。喜んで口に運ぶと、しょうがと醤油が染み込んだナスからじゅわっとこくのある汁があふれた。白いご飯が進む。

 食後のお茶を飲んでいるところに、机の上に置いたスマートフォンが鳴った。無田からのメッセージだ。

 ――おはよう。晴れてよかったね。

 ――うん。

 ――忍部はもう電車に乗ったって。俺も早めに家を出るね。

 ――アイスリンクに8時集合だよな?

 無田の返事は頭の上に前脚で丸をつくった白い猫のスタンプだった。くすりと笑って、杷も適当なスタンプを送っておく。

「ごちそうさま。いつもご飯ありがとう」

「いえいえ、おそまつさまです」

 祖母に朝食の礼を言って自分の部屋に戻った杷は、昨夜のうちに用意しておいたユニフォームに袖を通した。

 全身が映る鏡の前で具合を確かめる。いい感じだ。中にはハイネックのアンダーシャツを着込み、丈の短いスニーカーソックスを履いた。インナーや手袋などは全て黒で統一すると決まったので、実際に揃えるととても引き締まった印象になる。

(いいなこれ)

 コスチュームが決まると、やはり気分が上がる。

 カーリングに使うブラシやストーンなどの道具は会場の貸し出しなので、杷が背負ったボディバッグに入っているのは財布とタオルにティッシュ、ドリンク類。あとは小遣いで買った専用シューズくらいのものだった。最後にスマートフォンをポケットに突っ込み、杷は余裕をもって家を出た。

 一応、祖父にも声をかけていこうかと思ったのだが、別の場所の雪を退けにいってしまったのか玄関の周りには姿が見えなかった。杷は有難く、雪かきの終わった玄関前を歩いて門を出る。

「出かけるのか」

「うわあ!」

 びっくりして振り返ると、雪かき用のスコップを手にした祖父が仏頂面で屋根の上に立っていた。

「じ、じいちゃん……いきなり声かけないで」

「お前にも手伝わそうと思ったら、今日は大会があるからと藤子とうこが言うもんだからな。表の道路まで綺麗にしといてやったぞ」

 ざっ、とスコップでかき落とされた雪が軒先を滑り落ちていく。

 思えば、祖父に一番最初に教えてもらったのは雪かきだったかもしれない。まだ小学校にも上がっていない杷を屋根の上に上げ、スコップを持たせた手を上から握って一緒に雪かきをさせていたところを見つけた祖母は真っ青になって早く下へ降ろすように祖父を説得したのだそうだ。だが、小学4、5年になる頃にはそろそろいいだろうと言い張ってまた手伝わせるようになったので、杷は昔から高いところは得意だった。

(スポーツが駄目なら、何ならいいんだろ)

 ふと思いついて、頭上の祖父を見上げる。

「あのさ、俺が造酒屋を継ぎたいって言ったらどうする?」

 それは別段、そうしたいと望んでいるほどの提案ではなかった。

 ただ、そういう選択肢もあるということは承知していたし、もし祖父がそうして欲しいと思っているのであれば、これまで世話になった恩返しにもなるだろう。

「いらん」

 だが、祖父はすぐさま断言した。

「なんで?」

 少しばかり祖父が喜んでくれるのを期待していた杷は、当てが外れて聞き返した。上から祖父の降ろした雪が降ってきて、慌てて後ずさる。跳ねた雪粉が顔にかかり、冷たい味が唇に染みた。

「お前に、ひとつの仕事を一生続ける覚悟があるのか? この家を継ぐってことは、酒造りと心中するってことだ。そうやって俺の考えを窺う時点で向いとらんわな」

 ざっ、とスコップで屋根の積もった雪をかき、休むことなく落としていく祖父の語り口は淡々としている。

「じいちゃん、今時そんな厳しいこと言ってたら誰もなり手がいなくなっちゃうよ」

「お前のそういう甘いところは藤子譲りだな。弟子にするならあの間嶋とかいうほうがよほど見どころがある」

「間嶋?」

 意外な名前に杷は目を瞬いた。

 祖父は雪かきをする手を休めることなく、作業を続ける。

「この間、俺のところへ挨拶に来ただろう」

「ああ……」

 学校をさぼってスケートリンクに行った日のことだ。部屋で大会の録画映像を観ていた時、祖父の帰宅を知った間嶋は杷が止めたにも関わらず下へ降りて行って、なにやら2人で話し込んでいたのだった。

「ああいう目をしたやつは裏切らん。たとえ自分が裏切られてもな。カーリングなんぞ辞めてうちで働かんかと言ったら断られたわ」

「じいちゃん、ちょっと。うちのメンバーを勝手に勧誘するのやめてくんない?」

「自慢の檜風呂もあるんだがなあ」

「じいちゃん……」

 いつかの杷と似たようなことをぼやいた後で、祖父が自分の腕時計を指さした。

「そろそろ行かんでいいのか?」

「あっ」

 まずい、と杷は我に返った。せっかく早めに家を出た分がちゃらだ。門を飛び出しながら、屋根の上の祖父に向かって声を張り上げる。

「今日の試合、地方テレビで放送するらしいからさ。気が向いたら見てよ」

「どこのチャンネルだ」

「アイスリンクの真ん前にテレビ局あるじゃん、あそこ」

「気が向いたらな」

 それきり、祖父は口をつぐんで雪かきに没頭し始める。

(大会の日くらい気持ちよく送り出してくれたっていいのにさ。まあ、気が向いたら見てくれる気があるだけ前よりマシかな)

 杷は気を取り直して、大きく息を吸い込んだ。そしてゆっくりと吐き出す。よし、と頷いて除雪の済んだ表通りを急いだ。

「久世くん、こっちこっち!」

 色とりどりのユニフォームでごった返すアイスリンク前から無田を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。

「同じユニフォーム、すぐわかったよ」

「俺も」

 無田が嬉しそうに両手を出したので、杷は照れくさくなりながらそれにタッチした。彼はジャケットのスナップを首元まできっちりと留め、フェイクファーのイヤーマフラーが付いた黒いニット編みのキャスケット帽を被っている。

「久世くん、俺に勇気を分けて」

 タッチしたままぎゅっと指先を握られた杷は、きょとんとして首を傾げた。

「どうしたんだ?」

「あそこ、あそこ」

 無田が示す先には、例の濃藍色のユニフォーム――Gいわてだ。あちらもまだ全員が揃っていないらしく、2,3人で柱の近くにたむろしている。

 夜空のような濃い藍地に銀箔で流星模様がデザインされたユニフォームはやはり他のチームとは違った貫禄がある。ちょうどこちらに背を向けている男の名前を読もうと杷が目を細めた隣で、無田が一瞬早く彼の名前を告げた。

「TSURUMI。6年前の世界選手権で開催国の強豪カナダを破って銀メダルをとった日本代表チームのスキップ、鶴見つるみはじめだよ」

「ああ、録画で見た」

 無田から貸してもらったディスクの中にその試合も含まれていた。延長戦エキストラエンドまでもつれこんだ準決勝を制したのは、第11エンドのラストストーンを投げた鶴見のダブルテイクアウト。決勝進出が決まった瞬間、観客が総立ちになっていた。

 こうして実際に目の当たりにした鶴見は32歳という年齢の割には若く、世間知らずな感じに微笑む様子はまだ社会に出てまもない青年のようにさえ見える。あまりスポーツマンらしくない、整った細面に人懐こい笑みを浮かべる横顔はいかにも人から好かれそうな雰囲気で、これは人気があっただろうとひと目でうかがえる存在感があった。

 無田は感無量といった様子で、緊張をほぐすように杷の手を何度も握りしめる。

「俺、すごいファンなんだよ。まさかこんなところで会えるどころか、試合まで出来るなんて思ってもみなかった。ちょっと握手してもらってくるからここで待っててね――」

 たっ、と駆け出した無田だったが、ちょうど前から歩いて来ていた間嶋に背負っているダッフルバッグを掴まれ、あえなく引き戻された。

「何するんだよ!」

「試合する前から握手コンシードしにいくとか、あほかよ。終わってからにしろ」

「コンシード?」

 杷が聞き返すと、間嶋は端的に答えた。

「点差が大きく開いたり、残りストーンの数の関係で勝てなくなったら負けを認めてそれ以上のプレーを行わないことを選択できる。その時にするんだよ、握手を」

「なるほど」

 それはそれとして、と杷は抜け出そうともがく無田を捕まえている間嶋に今朝の祖父とのやりとりを教えた。

「じいちゃんにうちで働かないかって誘われたこと、なんで黙ってたんだよ」

「だって、断ったのにわざわざ言う必要あるか?」

「ない」

 きっぱりと杷は答えた。

「でも悔しいじゃん、孫の俺よりも向いてるとかさあ。でも、じいちゃんに話つけてくれたのは感謝してるよ。あ、忍部さんだ」

「よう、おはよう。何を話してたんだ?」

「別に。さっさと受付しにいくぞ」

 ようやく無田を解放したかと思えば、先に建物の中へ入って言しまう間嶋に忍部は苦笑いする。

「ほんと馴れ合わないなあ、あいつ。俺たちも行こうか」

 無田はまだ諦めきれない様子で、名残惜しそうに後ろを振り返った。憧れの選手を前にして既にクライマックス状態の無田になんとなく不安になってきた杷は、小声で彼の意向を確認する。

「あのさ、勝ちにいくんだよな?」

 4人でかたまって受付に並びながら囁くと、無田は見る間に目を吊り上げた。

「当たり前だろ。憧れの選手を相手にぶざまな試合なんてできないよ」

「……仰る通りでございます」

 杷は肩を竦め、参加者全員に配られるパンフレットと記念品のタオルをスタッフから受け取る。

「それにさ」

 話は終わったとばかり思っていた杷はもう少しで無田のつぶやきを聞き逃すところだった。

「久世くんが入って初めての試合でしょ? 負けたくないよ」

「無田――」

 不覚にもときめいてしまった杷は、「うん」と即座に頷いた。

「俺も勝ちたい」

「頑張ろうね。ほら、これ1回戦のメンバー表」

 無田はチームのスキップにだけ渡された数枚のプリントを差し出した。

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