12.ボレロ(4)

「あの時もお前、滑ろうとしてたよな」

「は? あの時っていつ?」

 間嶋は僅かに頭を傾け、横顔を杷に見せたまま視線だけをこちらへ向ける。そして、バス停で杷が彼を誘うのに使った言葉をなぞって言った。

「お前と初めて会った時のこと。ここの受付で入場券を買おうとしてただろ」

 どうして、今ごろになってそんな話を蒸し返すのか彼の真意がわからない杷は、訝しむままに頷いた。あれからまだひと月も経っていないということが信じられない。

「ああ、ばあちゃんに頼まれた使いの帰り道にここの前を通りがかって……氷の匂いが懐かしくて、いてもたってもいられなくなったんだ」

 ずっと続けていたフィギュアを辞めて、どこへいけばよいのかもわからない迷子のような杷の心を引き付けた場所。

 感じた郷愁は『家』――に似ているかもしれない。

 ここにいれば何も恐れることはないと体が覚えている、慣れ親しんだ安心感。

(あんなに練習が辛くて、苦しかったのに?)

 けれどフィギュアをやっている限り、杷は何も不安を感じることはなかった。そこには自分のやるべきことがあって、指示をくれる人がおり、うまくできれば――否、できなくとも――喜んで拍手をくれる観衆がいた。

 その世界では、杷はただ滑っているだけでよかった。そういう、自分では何も考えることなくただ求められることをやり続けるだけで全てを認められる場所がかつてはあったのだ。

「フィギュアを辞めたのはお前が自分で決めたことだけど、カーリングを始めたのはあの時に声をかけた俺の責任だろ」

 感傷を振り切るように鼻をすすった杷の隣で、間嶋は淡々と言葉を紡いだ。感情なんてどこにもないとでもいいたげに低く響かせる乾いた声色は、よほど注意しなければその裏にある氷のように研ぎ澄まされた純粋な意志にまで気づけない。

「だから、お前がカーリングをやることで文句を言うやつがいたら、俺のせいだってそいつらに言い返せばいいし。それでもつらかったら、いつでも呼べばいい」

 ようやく間嶋が顔をこちらに向けた。

「背負わせろよ、お前を引っ張り込んだ責任くらいは」

「――――」

 言葉を失う杷に、間嶋は彼らしい素っ気なさで付け加える。

「まあ、久世杷の無駄遣いと言われたらそれは一理あるとは思うけどな。お前こそ、カーリングなんかやり始めて後悔してないのか。べつに、大会が終わったら抜けてもいいんだぞ」

「やるよ」

 とっさに、杷は即答していた。

「……大会が終わってもやりたい。もっとも、実際に俺を使ってみて用が足りないと思ったらクビにしてくれても構わないけど」

「じゃあ、やれよ」

 間嶋も杷の答えがわかっていたかのように言った。

「大会は2日間。参加24チームで4チームごとに予選リーグを行い、それぞれ1位のチームと2位になった6チームでドローを行って中心に近い位置に止めた2チームが決勝トーナメントに進める。予選は1日目に2試合。2日目には残る1試合と決勝トーナメントを合わせて4試合もやることになる。慣れてても連戦はきついし、実績のあるチームは東京や北海道あたりからも遠征してくるからな。地方のオープン大会といっても、決勝にはそれなりに強いところが残ってくる」

 不意に、間嶋が後ろを――隣接しているカーリングシートを気にした。濃藍色のユニフォームを着た男子選手たちが練習試合をしているようだ。

「あのユニフォーム、岩手の鉄道事業者が持ってる企業チームだ。前は女子だけだったが、今年度から男子も出来たんだ」

「へえ」

「社会人になっても続けやすい環境があれば競技レベルの向上に繋がる。露出の少ないマイナー競技じゃ難しいんだろうが、ああいう企業チームがもっと増えればいいんだけどな」

「お前はそういう先のこと考えてるのか?」

「先?」

「だから、カーリング部のある大学とか企業チームとか……」

 高校2年の冬にもなれば、学校で進路の話が出ることもあるだろう。間嶋は思い出したように言った。

「花巻CCにいた時、盛岡工業大学の監督には来ないかって声をかけられたな」

「ああ、やっぱりそういうのあるんだ」

「べつに推薦とかのちゃんとした話じゃなくて、単なる勧誘だよ。社交辞令みたいなものだろ」

 間嶋は肩を竦めるが、杷は直観的にそれは嘘だと思った。奨学金が出るような推薦の話ではないにしろ、それなりに正式な誘いだったのではないだろうか。それをこうやって茶化すということは、おそらく間嶋の方で色よい返事をしなかったのだ。

「なんで?」

 なぜ断ったのかという意味で杷は聞いたのだが、間嶋は別の意味にとったようだ。

「もともと花巻CC自体が強かったからな。高校生で公式試合に出させてもらってたのは俺くらいだったから、印象に残ってたんだろ」

「他人事みたいに言うよな、お前」

「俺にとっては自分のことなんて他人事みたいなもんだよ」

「なんだよそれ」

「ここに」

 とん、と間嶋は黒い手袋の指先で自分の胸元を差した。

「ちゃんと心が入ってないんじゃないかって、たまに考える」

 杷はまじまじと間嶋の顔を眺めてから、反応に困って眉をひそめる。冗談なのか本気なのかわからない。

「それって小難しい哲学的なあれ?」

「違う」

「じゃあどういうのだよ」

「去年のNHK杯でのお前みたいなやつ」

 虚を突かれた杷は、一気に顔が熱くなるのを感じた。

「見たのかよ、あれ」

 思わず寄りかかっていた背を離して、間嶋のいる方に向き直る。顔から火が出る思いの杷に対して、間嶋は平然と頷いてみせた。

「ネットの動画で見たって言ったろ」

「よりにもよって、あれ、俺のフィギュア人生で最悪のやつ……! どうせ見るならもっと他にいいのがいくらでもあっただろ。それこそ優勝したジュニアの全日本とか、その前のグランプリシリーズのやつとかさあ」

「でも、あれが一番再生数が多かったし、観客の拍手も大きかった。どれだけ失敗してもしゃにむに滑って、悔しくて泣き崩れて。ああいうのが人の心を動かすんだろ。俺が言ってる心っていうのは、そういう意味だよ。俺にはできない」

「悪かったな、テレビの前で泣きまくって」

「褒めてるんだよ。ほら、記憶に残る負け試合ってあるだろ」

「うるさいな。それ以上言うならもう口利かないからな」

 杷は真っ赤な顔を隠すように背け、間嶋から離れて滑り始めた。

 見上げた時計は12時前。そろそろ天樹は空港に向かう頃だろうか。早めに現地へ飛ぶのは時差に体を慣らす目的もある。四大陸フィギュア選手権の開催は現地時間で金曜日と土曜日の午後。時差を考慮すると、ちょうどカーリングのオープン大会が開催される土日と同日になる。

 お互いの大会が終わったら、天樹に謝らなければならない。

 ただし、カーリングを始めたことではなくて、何も言わずに引退を決めてその後も連絡を取らなかったことをだ。

 ちら、と間嶋を振り返るが、彼は杷を追いもせず同じ場所にいた。

(心、ねえ……)

 そんなもの、杷だってわざわざ自覚したことはない。

(自然にあふれてくるものじゃないのか?)

 バックで滑りつつ、何とはなしに両手を胸の前に掲げるだけで――その時の気持ちが形になる。フィギュアを辞めると決めた時、逃げずに彼と向き合って、怪我の状況も自分の思いも全てを話すべきだったのだ。許してくれなくとも構わない。恨まれているのを承知した上で、それでもカーリングは続けるまでだ。

 お前でなくてもいいじゃないか、と言い放った天樹の顔が頭をよぎる。

(ちがう)

 問題は俺でなければならないかどうかではなくて、俺がやりたいと思うかどうかだ。

(天樹の結果がどうであろうと、俺はカーリングを辞めない)

 決めたら随分と気が楽になった。杷はいつの間にかリンクを上がって、出口近くの壁に寄りかかってスマートフォンを弄っている間嶋の元に戻った。

「昼はどうする? 俺は弁当あるけど……なに、無田からのメッセージ?」

「なんか怒ってる。ユニフォーム渡す予定だったのになんで学校来てないんだよって」

「あっ!」

 どうしてそれに気づかなかったのだろうか。杷は声を上げ、額をたたいた。

「どうしよう、無田ごめん」

「どういうのにしたんだ?」

 間嶋は素早く、家まで取りに行くから帰宅したら連絡を寄こせというメッセージを打ち込んだ。

「……気に入らなくても文句言わない?」

「言うに決まって――」

 間嶋が不自然に言葉を切ったので、杷は首を傾げて彼のスマートフォンを覗き込んだ。

「参加チームの発表と予選リーグの組み合わせが出た?」

無田がメッセージに添えたリンクをクリックすると、大会主催者のホームページに掲載された一覧が表示される。

 1番上のAグループに花巻CCの名前を見つけてどきりとするが、間嶋はそこを流して下にスクロールしていった。Bグループには間嶋を勧誘したという盛岡工業大学カーリング部の名前もある。

「C、E……Fグループにあった、チーム無田」

「同じFグループ、ガラクシーアいわてって今そこで練習してる企業チームの名前だぞ。協賛のバナーに所属してる鉄道会社の名前がある」

「つまり、スポンサーチームのお披露目ってこと?」

「たぶん」

「……企業チームって強いよな?」

「そりゃ、金もらってやってるんだからな」

 再び、ストーンが弾き出される時の爽快な音が響いた。

「くじ運がいいな」

 間嶋の独り言めいたつぶやきに、杷は「え?」と聞き返した。どう考えても企業チームのような強敵といきなり当たるのが幸運とは思えない。

 だが、間嶋は言った。

「どうせどこかで当たるなら、予選リーグで蹴落としておいた方が楽だ。最後の決勝なんかで当たってみろよ、何戦もやって疲れた後じゃどうしたって地力の差が出る。だが、まだ探り合いの1試合目なら大番狂わせも不可能じゃない」

 とりあえず飯にするか、と間嶋はホールと貸靴室を区切るガラスドアをくぐった。

「午後も滑るのか?」

「いや、もういい」

「じゃあ、コンビニで飯買ってお前んちに戻ろう。無田の家にユニフォームを取りに行くまで時間を潰す必要もあるし、ちょうどいい」

「? 俺んちに来ても遊ぶものなんかないけど」

 暇つぶしになりそうなものなど、フィギュア用に聴いていたクラシックCDや舞台劇のパンフレットくらいしかない。あとは黒柳が貸してくれたアニメ映画のブルーレイも未見ではあるが、間嶋の趣味ではあるまい。

「あれがあるだろ」

 ベンチで靴を履き替えながらの間嶋の言葉はやはり足りない。杷は水滴をぬぐってブレードカバーをつけたスケート靴をバッグにしまいながら尋ねた。

「あれ?」

 間嶋がため息をついて先に立ち上がる。言うまでもないとでも言いたげな顔つきで、それでも目的のものを杷に教えた。

「無田から借りた録画だよ。Gいわてとしては実績がなくとも、チームメンバーが出てる試合は探せばあるはずだ」

「――やる気じゃん」

 杷は今日初めて笑う気になって、彼と肩を並べてアイスリンクを出た。だが間嶋は微かに片目を細めただけで、むしろ気分を害したように見えた。

「前に言っただろ、俺は勝つことならできるんだよ」

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