11.ボレロ(3)
右膝の激痛を抱えて立ち上がり、再度滑り出す。続けて跳んだコンビネーションジャンプは回転が足らず、2回転が精いっぱい――棄権の単語が脳裏をよぎった――だが、晩年に全ての聴力を失ったチェコの作曲家スメタナが紡いだ《ヴルタヴァ》の流れは止まらない。止まれない――ほんの一滴の雫が川となり大河となって祖国を流れゆくさまを奏でる張り詰めた音色が杷の差し出す指先に絡み、引き離せないひとつの演技になる。
重く、痺れるように感覚がなくなっていく右足を無理やり動かして何とか最後のスピンを回りきった。音楽が終わった途端、割れんばかりの拍手が激しく鼓膜を打った。杷は歯を食いしばってリンクを去り、今に至る。
「なら、辞めなければよかったんだ」
天樹は表情一つ変えずにつぶやいた。
「なんで勝ちを取り戻すまで続けようとしなかったんだよ。それは、もうお前に続ける意思がなかったからだろ? 諦めたからだろ?」
苛立ちの全てを込めるように舌打ちをして、杷に歩み寄った天樹が強くその二の腕を掴んだ。
「天樹――」
「なのに、なんでまた戦おうとしてるんだ? その気が戻ったのなら、やるべきなのはフィギュアの続きだろ。カーリング? そんなのお前じゃなくてもいいじゃないか」
ぎり、ときつく食い込むほどに天樹の指が腕を締め付けて来て、初めて体験する容赦のない強さに杷は身を竦ませた。
「離せよ」
「俺だって、最初は怪我で辞めざるを得なかったお前の分まで頑張ろうとしてたさ。連絡ひとつないのだって、きっと落ち込んでそれどころじゃないんだろうと思ってた。必死で練習して、やっと4回転フリップを成功させて――そんな俺の気も知らず、よく他の競技にうつつを抜かすような真似ができたよな」
「――離せって!」
その手を無理やり振りほどいて、杷は間近で天樹とにらみ合った。それから彼の胸を突き飛ばして机に向かい、引き出しの中を乱暴に探る。奥の方に埋もれていた数枚の書類を挟んでいたクリアファイルごと天樹に向かって投げつけた。
「医者の診断書。故障箇所は右足の膝で、外側半月板と前十字靭帯の損傷。去年の春に断裂した半月板を手術で切除してから半年間、ずっとリハビリをやってた」
ばらけながらフローリングの床に落ちたそれを、天樹の指が1枚ずつ拾いあげる。
「けど、もう膝の軟骨自体がすり減ってて、痛みが完全になくなることはない。フィギュアを続ければ将来的に人工関節へ入れ替える必要があるような状態で、今シーズンの復帰も絶望的。それでも現役を続けるかってコーチに聞かれて、俺がもういいって自分で言ったんだよ」
杷の言葉の真偽を確かめるように、天樹の視線が診断書の文章を追った。紙をめくり、添付されていたMRI画像のコピーを見つめる。
損傷した半月板を取れば現在の症状はおさまるが、軟骨を覆っていた部分がなくなることで膝の耐久性はより低下する。結局、杷の膝が使い物にならなくなるのは時間の問題だった。
「……お前がフィギュアを続けられないのはわかった」
天樹の声はいつもより低く、感情が乗っていない。彼はクリアファイルに書類を戻して、杷に返した。
「でも、他の競技をやるのは許さない」
「お前、何様のつもり?」
「俺はお前に勝つためにフィギュアをやってたんだ」
率直な告白に、今度は杷が言葉を失った。
ゆっくりと天樹の手が伸びて、杷の胸倉を掴み寄せる。すぐ後ろに机があって逃げられなかった杷は、いとも簡単に捕まった。
「小さいときから何をやっても人並み以上に出来て、持てはやされてばかりだった
「天樹……」
「俺は次の大会で表彰台の一番高いところにのぼってみせる。そうしたら、お前はカーリングを辞めろ。あれだけフィギュアに愛されてたお前が他の競技をやるなんて、許されないんだよ久世杷」
天樹が帰ってからも、杷は何もする気になれなくてしばらくの間、ぼんやりとベッドに腰を下ろしていた。
やがて階下から夕飯の支度ができたことを祖母が告げ、食欲はなかったが心配をかけるのが嫌で無理やり食べてから腹ごなしに散歩へと出かけた。
盛岡の街並みは城下町らしく市の中心部に商店街や役所などが集められ、その周辺を穀倉地帯が取り巻くように広がっている。
杷の祖父の家系はこの盛岡の地でずっと酒造りを続けていた。今の屋号は明治12年創業となっているが、江戸時代後期にはもう酒造業に携わっていたらしい。店先を通る国道を北に向かうと、線路を越えたところで北上川に行き当たる。いつもはランニングで駆け抜ける川沿いの小道を、ゆっくりと歩いて回った。
途中でぽつんと置いてある歌碑の前を通りがかり、その文字を改めて読む。
かの時に言ひそびれたる大切の言葉は今も胸にのこれど 啄木
そういえば、天樹に言おうと思っていたのだった。「4回転フリップ成功おめでとう」と「これからも頑張れよ」と。
けれど、それはひどく上から目線だった。
(もう、お前はとっくに俺なんか越えてるんだよ)
どうしてそれがわからないのだろうと、杷に天樹を責める資格はない。他でもない自分の方が彼を侮っていたのだ。
夜の10時を過ぎた頃に祖父宅へ戻り、シャワーを浴びてすぐにベッドへ入ったもののなかなか眠気はやってこない。おかげで寝起きも悪く、いつもより遅れて食卓についた杷は朝のたわいないニュースを眺めながらだらだらと時間を過ごした。
遅刻ぎりぎりになってようやく家を出て、歩いて向かった駅のバス停でスマートフォンを見ている間嶋と行き会った。
「久世? こんな時間にめずらしいな」
杷の通う杜陵学院よりも盛岡西高の方が駅から近いので、間嶋と同じ制服の学生たちは今の時間にもっともバスが込み合うようだった。
「何見てたんだ?」
「コンチネンタルカップっていう海外のカーリング大会の動画」
画面をのぞき込むと、立派な顎髭をたくわえた金髪の男性選手が投げるところだった。ストーンはピンボールのようにハウス前に散らばっていたストーン――ジャンクという――に次々とぶつかって跳ね返りながらハウスの中へ滑り込み、センターライン上にあった相手チームのNo.1ストーンを弾き出す。反射角を計算しつくした文句なしのスーパーショットだ。
「こういうのよく見るの?」
「参考になる」
ふうん、と相槌をうった杷は、ふと思いついて彼を誘った。
「なあ、今日さぼんない?」
間嶋は瞬きして一拍置いてから、「いいけど」と頷く。
「どこ行くんだ」
「お前と最初に会ったとこ」
杷は自分が来た道を指で差した。
「服貸すから、うちきて着替えていこう」
踵を返す杷の後をバスの列から離れた間嶋がついてくる。歩きながら手慣れた様子で学校に休みの電話を入れていたので、もしかしたら前にもさぼったことがあるのかもしれない。
「うちの親は仕事でいないからいいけど、お前の所は大丈夫なのか?」
「たぶん平気」
家に戻った杷は堂々と玄関を開けて、朝食の片付けをしていた祖母に声をかけた。
「ばあちゃん、ちょっと用ができたから学校休む」
「あら、そうなの? お昼はどうする?」
「持ってる弁当食べるよ。あとこいつ、間嶋っていう一緒にカーリングやってる友達。上で着替えてからそこのアイスリンク行ってくる」
「はいはい。いってらっしゃい」
「間嶋、上来いよ」
祖母と話をつけてさっさと階段を登り始める杷の背中に、間嶋の呆れたような言葉がかけられた。
「あれでいいのか」
「フィギュアやってる時はずっとこんな感じで学校休んでたから、慣れちゃってるんだよ。じいちゃんに見つかると面倒だから、急ごう」
部屋のドアを閉めて鞄を放り出すと、杷は壁際に積んだボックスの中から新しめのスポーツウェアを取ってベッドの上に投げた。
手袋が要るか聞こうとして振り返ると、間嶋は物珍しげに部屋を物色している。一階は全て和室だが、ここはシンプルな洋間で十六畳くらいの広さがある。窓側に机や本棚、ベッドを寄せて部屋の半分ほどを空けていた。
「ここでトレーニングもするのか」
フィギュアスケートをやっていた頃、フォームを確認するために壁へ張った姿見の前で間嶋がたずねる。
「そう。夕飯の前に開運橋の方までランニングして、寝る前にストレッチとか体幹を鍛えるためのスクワットとか。手袋は?」
「持ってる」
答えると、間嶋はさっさと制服を脱いで着替えを済ませた。手袋を尻のポケットに突っ込み、スヌードを被り直す。
杷も動きやすいコンプレッションウェアを履いて、ずっと部屋のすみに置きっぱなしになっていたバッグに手を伸ばした。
「本当に近いんだな」
揃って家を出た途端に間嶋の悪い癖が出たので、杷はため息をついた。
「主語が抜けてる。〝アイスリンクまで〟本当に近いんだな、だろ」
「アイスリンク〝まで〟なら、主語はアイスリンクじゃなくて〝お前の家って〟とかになるんじゃないか。アイスリンクは目的語だろ」
「わかってるなら両方ちゃんと言えよ。お前の家って、本当にアイスリンクまで近いんだな。はい」
「面倒くさい。ちゃんと伝わってるじゃないか」
たわいない話をしながら角をひとつふたつ曲がるうちに、青空を白く切り取るアイスリンクの建物が見えてくる。
入場券を、杷は間嶋の分も購入した。
「この前の分」
「でもお前、滑らなかっただろ」
「いいよ。付き合わせてるのこっちだから」
スケートリンクは平日の午前中らしく人はまばらで、杷は遠慮なく滑ることができた。一般開放中はジャンプとスピンが禁止されているのも、膝に負担がかからないため都合がよい。
「うまいもんだな」
間嶋はすぐに飽きたのか、フェンスに寄りかかって杷の滑走を眺めている。
「そりゃうまいよ」
杷は彼の前でブレーキをかけて止まり、呆れたように言った。
「ちょっと来いよ。ターン教えてやるから」
「べつにいい」
「なんでだよ。できるとかっこいいじゃん」
渋る間嶋を手招きして呼び寄せると、杷は片足だけで氷上に連続した2つの弧を描き、その中間点で滑る向きを前から後ろへと切り変えてみせた。スリーターンといってスケートを習ったら最初に覚える簡単なターンだ。いつも教えられる側ばかりだったので、間嶋にスケートを教えるのは楽しかった。
「人に嫌われるって、自分の居場所がどこにもなくなるような感じがするんだな」
ひとしきり滑った後で、杷は間嶋の隣に並んで口を開いた。何とはなしに、親に手を繋がれてたどたどしく滑る幼児を目で追いながらつぶやく。
「こういうの、罪悪感っていうのかな」
「…………」
間嶋は両手をポケットに突っ込んだまま、ずっとリンクを眺めたきりだ。いつまで待っても彼が黙っているので、杷は焦れたように言った。
「なんか言えよ」
「状況がわからない」
「……あんまり言いたくない」
「じゃあ、俺もなにも言えない」
「雰囲気で察しろよ」
「何を」
「だから、俺を――」
大きく吸い込んだ息がそのまま白く吐き出されていく。
下を向くと、きつく結んだスケート靴の紐が見える。無彩色の黒は、どこまでも沈んでいきそうな今の気分そのものだった。
「――慰めてほしいってことを、だよ」
聞こえなくても構わないとこぼした本音は微かな吐息にさえならなくて、杷は仕方なく昨夜の出来事をぽつりぽつりと語り始めた。
祖父の家をおとずれた天樹が、フィギュアを辞めてカーリングをしている杷を責めたこと。他の競技をやるなど許さないと言われたことは伝えたが、自分が大会を勝ったらカーリングを辞めろとまで言われたことは言えなかった。
間嶋はまたしても長考している。
「あのさあ」
いい加減、痺れをきらした杷は間嶋に何らかの反応を催促した。
「お前、そういうところが誤解されるんだからな。なんか考えてるなら考えてるで、なんでもいいから言えよ、とりあえず」
人の会話は論文ではないのだから結論が出るまで相手を待たせるなというのに、間嶋の話し方は相変わらず一方通行だ。
(こいつ、女と付き合わないんじゃなくて付き合えないんじゃないか?)
駄目だ、落ち込んでいると気が短くなってたまらない。普段なら流せる些細なことが弱った心を波立たせて、いらいらしてくる。
もうひと滑りしてこようかとフェンスに預けていた腰を浮かしかけた時、ようやく間嶋が口を開いた。
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