10.ボレロ(2)

「へえ、襟が折り返してるデザインもあるんだ」

 前の開きはスナップボタンになっていて、脱ぎ着が楽そうだ。色は黒に近いチャコールブラウン。

「あ、でも高い」

 値札を見ると、やや予算をオーバーしている。

「そしたらズボンは隣の量販店で探せばいいよ」

 無田が手に持っていた商品をラックに戻しながら言った。

「コーチジャケット、いま流行ってるしいいんじゃない? 素材もマットで高級感あってかっこいい」

 さっそく無田は店員に在庫を聞いて人数分のサイズがあるのを確認すると、その場で会計を済ませた。代金はあらかじめ全員分を無田に預けてある。

 それから、同じフロアにある衣料量販店でサイドにラインの入ったアイボリーのズボンを購入した。帰りはバスを使わず、そのまま歩いて家に帰る。サイズが合わないかもしれないことを考え、忍部には宅配で送り、間嶋には明日学校で渡して早めに試着してもらうようにすると無田が言った。

「ユニフォームの統一はできればでいいっていっても、やっぱりちゃんと皆で揃えるとやる気がでるよね」

 嬉しそうな無田の隣を歩いていると、その気分が杷にも伝染して心が軽くなる。

「無田はカーリング好きなんだな」

「ははっ、それくらいしか取り得ないしね。さっきの話さ、ほら、目標がどうとかってやつ。オリンピックは無理でも、今のチームでどこまでいけるのかできるところまではやってみたいよね。今度の大会、優勝すれば五月に軽井沢で行われるマスターズ大会への参加資格がもらえるんだ。軽井沢のアイスリンクってすごい大きくて綺麗なんだよ。国際大会でも使われるところでさ。アリーナみたいな館内にカーリングシートが6つも並んでるのなんて壮観だよ。上から観戦できるガラス窓とモニター付きのホールまであってさ。あそこで投げられたら気持ちいいだろうなあ」

 既に太陽が沈んだ暗闇の中を並んで歩く無田の横顔を、街灯の白っぽい明かりが照らしている。雪に反射するせいか、無邪気な無田の微笑みがきらきらと光って見えた。純粋に競技を楽しんでいる彼を、杷は心の底からうらやましいと思った。

「俺、無田には今のやり方が合ってると思うよ」

「どうしたの急に」

 びっくりして瞬きする無田の初々しさに圧倒されそうになる。

「すごく幸せそうだもん。俺もそれくらいフィギュアを楽しめればよかったな」

 自嘲ぎみに笑うと、不意に立ち止まった無田が杷の前に回り込むなり深々と頭を下げた。

「無田?」

「ありがとう、久世くん。うちのチームに入ってくれて」

 まっすぐに顔を上げ、ウェアの入った袋を胸に抱えて空いた右手で杷の手を掴む。手袋をしていないのに、無田の手は燃えるように熱かった。

 ぎゅっと力を込めて握られて、どきりと胸が高鳴る。

「君がいれば絶対に勝てるよ。目指そう、優勝」

 息を呑む杷の手を無田はしばらく握り締めていた。杷は言葉が出てこなくて、代わりに小さく頷き、無田の手をしっかりと握り返した。

 無田と別れてからも、足取りが妙に軽い。

 早く帰って練習したかった。無田に借りている録画も、大会までにできるだけ目を通して戦術の研究をしよう。ひとりで滑っていた時には感じたことのなかった力が湧いてくる。吐き出した息が白い靄となって暗闇に入り混じった。フィギュアスケートほどのめり込む必要はないと考えていたのがいまとなってはおかしく感じる。

 フィギュアスケートよりも、のめり込みたい。

「ただいま」

 祖父宅の燈籠が照る奥ゆかしい玄関の戸を開け、急いで靴を脱いだ。腕時計を見ると18時過ぎ。夕飯までに外をひと回り走って来られる時間だ。

「さっちゃん、お友達が来てるわよ」

 すぐに2階の自分の部屋に上がってトレーニングウェアに着替えようとしていた杷は、台所から声をかける祖母へ聞き返す。

「誰?」

 学校の友達なら、いきなり家に来るようなことはまずない。スマートフォンの着信を確認しても、やはり連絡は来ていなかった。

 廊下に現れた祖母は常備しているお茶請けの南部せんべいと杷の分のお茶を乗せたお盆を手渡してから、思い出すように自分の頬に指を触れる。

「あの、すごくスケートがうまい子よ。2階の部屋に通してあるけど、名前はなんだったかしら……」

「スケートがうまい?」

 階段を上がりながら、杷は首を傾げた。

 だとすると、同じスケートクラブでやっていたことのある近所の知り合いか、あるいはリンクを共同で借りて一緒に練習をすることがあった選手の誰かということだろうか。

 心当たりのある何人かの顔と名前を思い浮かべながらも、そのいずれもがしっくりとこない。誰もが、スケートから離れてまで個人的な付き合いをするほど親しい仲ではなかったからだ。

 結局、誰なのかまるで分からないままに階段を昇りきって自分の部屋のドアを開けた杷は、本棚の前で一冊の雑誌を手にする天樹を見つけ、言葉を失った。

 手持ち無沙汰な様子で雑誌を――例の杷と天樹を巻頭特集しているスポーツ専門誌のページをめくっていたのは、私服姿の天樹一生だ。白いフリースのボアブルゾンにデニムのジョガーパンツ。毛先が遊ぶくらいのパーマをかけ、ゴールドアッシュの明るいカラーに染めた髪を耳やうなじへ軽く被さる程度に伸ばしている。もともと長身の選手だが、最後に会った時よりもさらに背が伸びたように見えた。

(最後――)

 そう、彼が手にしている雑誌で特集されている昨シーズンのNHK杯。キス・アンド・クライで最低の点数を聞いた後、コーチに支えられて医務室に向かう途中で大丈夫かと声をかけられた。

「……家、知ってたっけ?」

 過去の記憶に引きずられそうになって、拠り所を探すために言葉を押し出す。

 あの時、天樹は自分の滑走順が近いのに心配そうな顔をして、医務室まで付き添おうとしたのだ。慌ててあちらのコーチが止めてくれなければ、本当にそうしたかもしれない。

「いや」

 天樹はゆっくりとかぶりを振った。

「けど、盛岡にある造酒屋だって聞いてたから。苗字で調べたらすぐにわかった」

「ああ、そう……」

 後ろ手にドアを閉めて、部屋の中央にある楕円オーバル形のテーブルに持っていたお盆を置く。天樹はまだ自分の茶碗に手をつけていなかった。

「ええと、あと1時間くらいで夕飯だけど食ってく?」

「いや、用が済んだらすぐに帰る。明日の午後から遠征でカナダなんだ」

「四大陸選手権」

「ああ」

 毎年、この時期に行われるアフリカ・アジア・アメリカ・オセアニアの4つの大陸の選手が参加する国際大会だ。

「もうそんな時期なんだな」

「まあ、シーズンだから。毎月何かしら大会があって移動ばっかり。これ、まだとってあるんだな。俺も持ってる」

 天樹はそう言って、手にした雑誌をかざした。

「お前は取材されるのが好きじゃなかったみたいだから、こういうの出版社から送られてきても読まないのかと思ってた」

「だって、いろいろ書かれるのは恥ずかしいだろ。でも記事にしてもらうのは自分を客観的に見る機会になるから。それに、その号はお前のインタビューが印象的だった」

「ラスボス?」

 本棚へ雑誌を戻しながら、天樹が笑った。

「そう。着替えても構わない?」

「ああ」

 1年を空けても、天樹との会話は必要最低限の言葉で済む。

 杷は祖母がベッドの上に畳んで置いた洗濯済みのスウェットの隣に、買ったばかりのウェアが入っている紙袋を置いた。背を向けていても、天樹から発せられる緊張感が痛いほど伝わる。

 わざわざ、遠征の前日に北海道から盛岡までやってくるほどの理由――考えがまとまらず、杷は時間を稼ぐようにゆっくりと制服のシャツのボタンを外していった。

 心当たりがあるとすれば、彼に一言の相談もなく引退を決めたことくらいだ。それにしたって、今まで一度たりともメールですら何も言ってこなかったのに突然家まで来る理由になどならない。

「トレーニング、続けてるんだな」

 振り返ると、本棚の隣にある勉強机の端に腰を預けた天樹がこちらを見ている。答えに窮する杷に笑いかけて、見ればわかると言った。確かに彼が言う通り、正月の頃に緩んでいた腰回りはすっかり元通りになっている。ここ3週間、毎日のストレッチとランニングで引き締め直した脇腹の辺りをアンダーシャツの上からさすって曖昧に頷いた。

「……ちょっと、べつに運動を始めて」

「カーリング?」

 予想に反して天樹はあっさりとたずねた。

 驚いて、彼の顔を見る。

「何で知ってるんだ?」

「本当なんだ」

「それは――」

 杷はごくりと喉を鳴らして、頭から着替えを被った。

「……そうだよ。今月の初めに、ちょっと遊びで滑ろうと思って入ったそこのアイスリンクで声をかけられた。どこかのクラブとかじゃなくて、個人のチーム。メンバーが抜けて人が足りないっていうから、一緒にやってる。もう今週末に大会があるんだ、同じアイスリンクで」

 その時にはもう、彼の放つ緊張感の正体が怒りであることに杷は気づいていた。

「今度はお前が答えろよ。俺がカーリングやってるってどこで聞いた?」

「ファンの情報網を舐めるなよ。そんなもの知りたくなくたってSNSに流れてくる。ほら、フィギュアの大会があった時とか、よく俺がお前と一緒の写真を上げてただろ? お前のファンも結構俺のアカウントを見てるんだよな。お前はネットしないから、知らなかったかもしれないけど」

 つまり、黒柳と同じ情報源というわけだ。スピードスケート選手の彼が知っていたくらいなのだから、もっと近い位置にいた天樹が見ている可能性になぜ思い至らなかったのだろう。

「久世。お前、怪我でフィギュアを引退したくせに何やってんだよ。なんのために辞めたんだ?」 

「なんのためって、目的なんかあるわけないだろ。怪我で続けられなくなったから辞めるしかなかったんだよ」

「カーリングはできるのに?」

「お前、自分もフィギュアをやってくるくせにとぼけたこと言うなよ」

 杷は呆れを通り越して、愕然と天樹を見上げた。

 天樹は――この男は、いったい何が言いたいのだ。競技をよく知らない人間や扇動的なメディアならまだわかる。だがそれを、国内では常に表彰台を狙えるレベルにいるお前が言うのか?

「天樹。あらゆる冬季競技の中で怪我が一番多いのはフィギュアスケートなんだ。ジャンプもスピンも、体の限界を超えてる過酷な技だってお前ならわかってるはずだろ。なんで、俺が……あんな惨めな思いをしたまま辞めなきゃならなかった俺が責められるんだよ」

 あれから1年が過ぎた今でも忘れていない。

 NHK杯の1日目、SP。最初のジャンプで跳んだトリプルアクセルの着氷が定まらずに右足のエッジが横滑りした瞬間、焼けるような膝の痛みとともに杷の体は冷たい銀盤に投げ出されていた。

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