9.ボレロ(1)

「久世、カーリング始めたんだって?」

 昼休み、無田龍臣からのメッセージに返信しようとしていた久世杷はきょとんとして顔を上げた。

 一緒に飯を食っていたのは2人のクラスメイトだ。1人は学校のスケート部で実績のある選手で名を黒柳くろやなぎといい、杷とは1年の時に同じクラスになってからの付き合いである。

「俺、お前にそれ話したっけ?」

 学校の知り合いにはまだ、無田のチームに入ってカーリングをやっていることは教えていないはずだった。

 心当たりのない杷は眉を寄せ、机の上にスマートフォンを置いた。無田から大会の参加に関する連絡があって、当日の集合時間などを打ち合わせる必要がある。

 スピードスケートの選手らしく引き締まった体つきの黒柳は豆乳のパックにストローを差しながら首を振った。

「いや、SNSで回ってきた。盛岡のリンクで練習してるんだろ?」

「――SNS」

 というと、ネットで情報共有ができる個人向けサービスのことだったろうか。疎い杷にわかるように、黒柳は自分のスマートフォンをいじってその投稿を見せてくれた。ストーンをデリバリーしている自分が映った写真と名前を出した簡単な紹介コメントを目にした途端、杷はもう少しで頬張っていたおにぎりを吹くところだった。

「なんだよこれ、いつ――あっ」

 思い出されたのは、前に練習を観ていた女子らの存在だ。

「個人で撮った写真がこんな風に出回るの? ネットで?」

「お前、今時何言ってんだ。こんなもんスマホで撮ったその場で投稿できっぞ。一緒にいるのは他の学校のやつ? もう競技はこりごりだって言ってたわりには頑張ってんじゃん」

「オープン大会が近いんだよ。もう今週末」

 なんとなく落ち着かない気分なのを誤魔化すように、ペットボトルのお茶で米を胃の中に押し流す。ごまとしそをまぶして海苔を巻いた俵型のおにぎりは弁当箱の上段に。下段にはだし巻きの卵焼き、ごぼうとれんこんを細切りにしたきんぴら。それに里芋と一緒に照り焼きにした鶏肉が詰めてある。これだけの弁当を毎日作ってもらえるだけで祖父母の家を離れがたく感じる理由は十分だろう。

(なんか大事になってきたな……)

 2日ほど前、再び母から連絡があって有休をとったから今週末はこちらへ帰って来るという話をされた。自分との同居よりも優先したがる事情とやらがどんなものかその目で確かめるつもりらしい。

 面倒なことになりませんようにと祈りながら、弁当箱と揃いの箸で甘い卵焼きの一切れを口に運ぶ。

 カーリングの大会に友人たちと出場することを話したところ、祖母は膝の心配をしながらも黒柳と同じように喜んでくれた一方で、祖父の態度が思わしくない。

 やっとフィギュアスケートを辞めたのに、また別のスポーツを始めてどうするつもりだというのだ。フィギュアスケートとは全然違うと説明しても聞く耳をもたない。

「久世くん家は大変だなあ」

 その日の放課後、盛岡駅のバス停で待ち合わせた無田はスマートフォンを弄りながらしみじみとつぶやいた。

「ほら、これ俺のアカウント」

「へえ、結構フォロワー多いんだ」

 無田が見せてくれたのは黒柳がやっているのと同じ、ツイートと呼ばれる短い文章のかたまりが連なってひとつのページを構成する個人向けのSNSだった。フォローといって気に入った相手のアカウントをチェックしておくと、つぶやかれたツイートがリアルタイムに表示されるので簡単に情報が集まってくる。

「カーリング関係の情報収集に使ってるんだ。メンバー探してた時、これで忍部と知り合ったんだよ。久世くんもやってみる?」

「俺はいいよ、ネットって距離感とかよくわからなくて」

「前から思ってたけど、久世くんって間嶋とは違う意味でマイペースだよね」

 無田はそれ以上勧めることなく、手帳型のスマートフォンカバーを閉じた。

「ひとりっ子だったっけ? それじゃ家族も心配するよね。うちなんか好きにしろって放置だよ。まあ、2つ年上の兄貴がそこそこ勉強できてそっちに気がいってるから俺は期待されてないだけなんだけどさ」

「無田って弟なんだ? 面倒見いいから兄弟がいるなら下だと思ってた」

「下にいるのは間嶋の方だよ。中学生の妹。やっぱ女のきょうだいがいると違うよね、異性慣れしてるっていうかさ」

「ああ……」

 心当たりのある杷は神妙な相槌を打つ。

「そういうところあるよな、あいつ」

「うん。で、そういうところがまた男子連中から妬まれるんだよね」

 無田はため息をつき、やってきたバスへ杷と一緒に乗り込んだ。

「まあ、しょうがないとこあるよ。あいつかっこいいもん。ただそこにいるだけでまわりの劣等感を刺激するやつっているんだよね。俺だってカーリングがなかったら絶対に近づいたりしないタイプ」

 夕方の買い物時でもあるせいか、車内はほぼ満員だ。無理に乗り込む人の波に押され、杷は手すりの棒にしがみつく。

「うまくやってるように見えるけど」

「そりゃあ、うちのエースだもん。気持ちよく投げてもらうためにはいくらでも気を遣うよ」

 無田は大きな息を吐き出してから、ところで、と話を戻した。

「ほんとに久世くん家にお世話になっちゃっていいの? 大会の宿代わりならうちでも大丈夫だよ、ちょっと狭いかもしれないけど」

「いいよ、気にしなくて。どうせじいちゃんは夜も明けないうちから蔵で仕事だし、日が暮れる頃には寝ちゃうから。それに、自分が文句言ったからじゃあ辞めたってなるのも嫌なんだよ。フィギュアの時も散々反対しながら一番金出してたのじいちゃんなんだから。足りなくないか、必要なものはないかってしつこいくらい聞いてきてさ。素直じゃないんだよ」

「うちの死んだおじいちゃんもそんな感じだったなあ。あ、でもフィギュアに比べたら怪我しにくいけど絶対に痛めないってわけじゃないから、膝は気をつけてね。スイーピングの時、右膝に負担がかかるようなら毎回オープンスタンスでいいよ」

「でも、そうすると一緒にスイーピングする忍部と間嶋がやりづらくないかな」

 オープンスタンスというのは、進路に体の前を向けて進む体勢のことだ。逆にクローズドスタンスは背を向ける形になるため、足運びが難しい。

「あのふたりなら大丈夫だよ。俺から言っとこうか?」

 杷は心配してくれるのを有難いと思いつつも、大丈夫だと首を振ってみせた。

「平気だって」

「ならいいけど。久世くん、家でもランニングとかのトレーニングしてるよね? ほんと無理しなくていいからね」

「――俺、やり過ぎかな?」

 出し抜けに不安になった杷は、ぽつりとこぼした。

「実は、どれくらい頑張るのが適正なのか全然わかってない。遊びのつもりはないけど、フィギュアと同じくらいのめり込む必要はないってことはわかる。けど、その中間ってなに? 考えてみたら俺、物心ついた頃からフィギュアしかやってないから他になんの趣味もないんだよ」

 真剣な気持ちで言ったのに、無田はびっくりした顔でこんな感想を言った。

「久世くんて真面目だなあ」

「え、そういう問題? みんなわかってやってないの?」

「うん。そんなの個人の感覚次第じゃないのかなあ」

「嘘だ。わかってるからそういう風に言えるんだよ。無田にとってカーリングってなに? たとえば目標とか」

「えっ、目標?」

 無田の顔が見る間に赤くなる。

「そんな大層なもの、わざわざ決めたりしないよ」

「でも、無田から借りたカーリングの本にはチームを作ったら目標を決めるって書いてあった。例えばオリンピック出場とか」

 これはカーリングを始めてから知ったことなのだが、他のチームスポーツと違ってカーリングはオリンピックなどの国際試合で選抜チームを作らない。必要なのはただ、自分のチームを作って日本カーリング協会の定める公式大会を県大会から国際大会まで順番に勝ち抜いていくことだけなのだ。

 もちろん、ほとんど参加条件のないオープン大会に比べれば年齢や性別、細かいユニフォームの規定などがあって誰でも簡単に参加できるというわけではないが、最初からプロ選手が出場するような競技に比べればはるかに敷居が低いといえる。

「久世くんがオリンピックとか言うと洒落にならないんだよなあ」

 まいったな、と頭をかく無田は耳まで赤くなっている。

「さすがにそこまで本気で考えようとするとね、やっぱりちゃんとしたクラブや団体に所属していいコーチに指導してもらわないとって現実的な話になっちゃうんだよね」

 杷は「うん」と相槌をうった。

 指導者の質が大切なのはどの競技でも変わらない。もしかしたら、本人の素質以上に。だが、無田は恥ずかしそうに白状した。

「人に教わるの、向いてなくてさ。今のチームでやってるのは俺、すごく楽しくて好きだよ。目標なんか決めたりしないって言ったけどさ、でも、うん。できればずっと、おじいさんになってもこんな風にカーリングやっていたいなあ……」

 陶然とつぶやいた後で我に返った無田は照れ隠しに頭をかき、遠慮がちに言った。

「なんて、きっと久世くんには物足りないよね。それこそ、怪我さえなければオリンピック代表も夢じゃなかっただろうしさ」

「そうかな。どっちにしろ、俺はあそこまでだったんじゃないかな」

 杷は曖昧に笑って、その話を打ち切った。

「そろそろ着くな」

 路線バスが滑り込む先は、市内で一番大きなショッピングモールだ。大会で着るウェアを買うため、2階のスポーツ専門店に直行する。

 フロアの突き当たりに入った店舗はとにかく広く、特に東北では有名な登山用品を扱うブランドが大きく取り扱われている。店内に張られた明るいオレンジのテントが目を引く横を通り過ぎ、スポーツウェアの売り場に到着。

「えっと、この辺かな」

 腰の高さに陳列されたジャケットの列をかき分け、無田がつぶやいた。

「かっこいいの選ばないと後で間嶋がうるさいからな。まったく、こだわるんなら自分でも見に来いっていうんだよ」

 無田はぶつぶつと愚痴を言いながらボルドーのフルジップフーディジャケットを杷の胸元に当て、「ちょっと派手かな」と言ってラックに戻した。

「久世くんは何色が好き?」

「わりと何でも。フィギュアの衣装は黒が多かったけど」

「黒いいよね。なにしろかっこよく見える」

「そう。七難隠してくれる」

「難? どこに? 久世くんはスタイルいいでしょ。忍部はあのガタイだしさあ、並ぶと俺ってば貧弱に見えちゃって。まあその分、頭使ってスキップ頑張るからいいんだけどさ」

 ぼやく無田の隣で、褒められた側の杷は照れながら商品の列に手を伸ばした。ふとまっ白なジャケットが目に入って、いつも白い衣装ばかりを選んでいた天樹の伸びやかな演技が想起された。なかでも、杷は彼がジュニア最後のシーズンにSPショートプログラムで踊ったサラサーテのサパテアードが特に好きだった。アンダルシア舞踏の独特な足遣いを取り入れたステップと軽快なリズムに乗って実に楽しげにコンビネーションジャンプを決めるところは何度映像を見返しても飽きない。

(あいつはとにかく『俺を見て』だからな……)

 これからも伸びるだろう天樹のことを考えると、微かに胸が痛む。フィギュアを辞める時、杷のことを誰よりも評価してくれていた彼にだけはどうしても連絡することができなかったのだ。

(そろそろメールしてみるか。4回転フリップ成功おめでとうって言って、俺の分まで頑張れよって)

 奥の方を覗き込んでいた杷は、気になるジャケットを見つけて手にとった。

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