8.フォース(4)

(――いた)

 ぐるりと白い外壁伝いに芝生の方を見ると、建物に寄りかかるような格好で座り込んでいる間嶋の姿を見つけた。すぐに駆け付けようとして踏みとどまり、ポケットに小銭が入っているのを確認するといったん中に戻る。

「奢り」

 自販機で買ってきた250mlペットボトルのカフェオレを、間嶋の顔の前に差し出した。

「寒かっただろ、ここ」

「わざわざ探しにきたのか?」

 間嶋が意外そうに言うので、杷の方が呆れてしまった。彼の手に温かいペットボトルを押しつけ、自分の分のキャップを開ける。

「お前がすぐ帰ってくればわざわざ探しに来る必要もなかったんだけど? 帰るなら荷物取ってきてやろうか」

「不戦敗にするつもりかよ」

 今度は間嶋が肩を竦め、手の中のペットボトルを弄んだ。

「心配しなくても、たとえ試合であいつらと当たろうがいつも通りに投げられる」

「それは分かってるけどさ」

 妙なところを強調するので、杷はどういう意味だろうといぶかしんだ。

 間嶋は微かなため息をつき、横目で杷を見上げる。

「お前になにがわかるんだよ」

「わかるって」

 確かに間嶋なら、勝負のかかった最後の1投であろうと一筋の緊張すら纏うことなく投げきるに違いない。決して熱くならない褪めきった性格は、氷上のチェスとも言われるカーリング競技とはおそらく相性がいい。

 間嶋は手持ち無沙汰に手の中でペットボトルを回しながら、杷の意見を求める。

「お前、何のためにフィギュアやってた?」

「唐突だな」

 杷はペットボトルのキャップを締め、間嶋の隣にしゃがみ込んだ。

「これ、オフレコ?」

 身を乗り出し、茶化すようにたずねる。

 間嶋が頷いた。こちらは相好を崩さず、必要最低限だけ顎を引く形だった。

「勝てたからだよ」

 単刀直入に、杷は言った。

「他の子どもよりうまかったから。5歳だったか6歳だったか、その時習ってたクラブのコーチにすぐ声をかけられた」

 スケートを始めたのはちょうど母の仕事が忙しくなってきた頃、祖父母の家に預けられたのがきっかけだった。最初は杷に近所の友達ができるようにとか、そんな理由だった気がする。それほどやんちゃな方ではなかったと思うが、遊びたい盛りの子どもの相手は祖母の手にあまったのだろう。

 ただ、皮肉なことに、そこでフィギュアスケーターとしての才能を見出されたおかげで友達と遊ぶ暇などなくなってしまったのだが。

「文句言ってたのはじいちゃんくらいだったかな。子どもをそんな馬鹿みたいに働かすもんじゃないって。ばあちゃんはいいとも悪いとも言わなかったけど、大会で勝つと喜んでくれた」

「親は?」

「うち、母親だけなんだ。東京でなんかイベント系の仕事してる。だから、いま住んでるのは盛岡で昔から酒造をやってるじいちゃん家。和式のおっきい母屋でさ、立派な檜風呂があるんだ。ていうか、これここだけの話だからな。絶対に誰にも言うなよ」

「どうして?」

「だって、なんか感じ悪くないか。スケートを好きで頑張ってますってほうが好感持たれる」

「べつに嫌いなわけでもないんだろ」

「そりゃな」

 もしもフィギュアスケートが嫌いだったら、十年以上もきつい練習を続けていけるわけがない。今でもたまに、滑りたくてたまらないことがあるくらいなのだから。

「お前の理由は正しいよ」

 間嶋は表情一つ変えずにつぶやいた。

「どんな綺麗ごとを言ったって、競技は勝てないやつから消えていく。続けたければ勝つしかないんだ。実際、大会で一番長く試合できるのは最後まで勝ち抜いたやつだけなんだから。だから俺は勝つためにカーリングをやってきたし、実際に勝ってきた」 

「それ、花巻CCにいた時の話?」

 ふと疑問に感じて、杷は首を傾げた。

「そう」

「それで何でいじめられるんだ? ちゃんとチームに貢献してるのに」

「…………」

 間嶋は答えない。

 無言でペットボトルの中身を飲み干すのを、杷は頬杖をついて眺めていた。

(こいつ、カーリングはあんなに器用なのにどうして人間関係は不器用なんだろ)

 あるいは逆で、間嶋にとって他人と繋がるための手段がカーリングなのかもしれない。自分の感情を伝えることが下手だから、その分をチームに貢献することで埋め合わせようとしている。

「俺は、もしかしたら負けたかったのかもしれない」

「え?」

「そろそろ戻るか」

 間嶋はスマートフォンで時間を確認して立ち上がると、ズボンについた芝を払った。ポケットに手を突っ込んで自動ドアをくぐり抜ける背中を追いかけながら、杷は「なあ」と声をかける。

「勝とうな、次の大会」

 間嶋は歩き続けたまま、こちらを振り返りもせずに聞き返した。

「勝つってどこまで?」

 それは果たして素で聞いているのか、それともわざととぼけているのかを知りたくて、杷は足を速めて彼の隣に並び立った。

 間嶋は相変わらず仏頂面だが、顔色を窺おうとする杷からほんの僅かに顔を背けた。最大限好意的に受け取れば、遠まわしな照れ隠しの仕草に見えなくもなかった。

「どこまでって、最後までに決まってるだろ。大会は2日間かかるって無田に聞いた。会場はここ使うんだろ? 歩いて15分くらいしかかからないし、皆でうちに泊まれよ。さっき言ったけど、すごい本格的な風呂だからさ」

「風呂で釣るのかよ」

「うん」

 真面目に頷くと、間嶋が喉を鳴らすように笑った。

「期待しとく」

 揃ってカーリングシートに戻ると、無田がほっとした顔で2人を出迎えた。忍部は体が冷めないようにハックからブラシだけを持って滑る基本のフォーム確認をしていたようだ。

「久世くんまで帰ってこないからどうしたのかと思ったよ」

「ああ、遅くなってごめん――」

 一方、隣のシートで練習している花巻CCの連中は間嶋の存在に気が付いた途端、明らかにざわめいた。直接何か言ってくるようなことはなかったが、間嶋だけでなく一緒にやっている無田や杷たちにまで意味ありげな視線を投げかけては、ひそひそと低い声でささやき合う。

(そりゃ、自分たちで追い出したやつが他のチームでプレイしてたら気になるよな。どんなやつとやってるのかとか、強いチームなのかとか――)

 唐突に、杷は間嶋が帰ってこなかった本当の理由について理解した。

(そうか。平気、ね)

 なんて分かりにくい気遣いだろうか。

 壁に立てかけておいたブラシを手に取りながら視線を感じる方向に顔を向ければ、相手の方がぎくりと視線を逸らした。

(べつに。平気だけど)

 見られるだけなら慣れている。

 それを、意識しないということも含めてだ。何事もなかったかのような顔で無田たちの待つシートに戻ると、忍部が気さくに話しかけてきた。

「間嶋と何を話してたんだ?」

「大会の時はうちに泊まれって言いました。忍部さんも学校の寮からだとここまで1時間半くらいかかりますよね。よかったらおもてなしさせてください」

「それは楽しみだな」

 彼は力強く、目印代わりのブラシを立てる。杷は慎重にハックの位置を靴の裏で確かめ、持ち上げたストーンの裏を手袋で撫でながら前を向いた。

 シートの脇でこちらを見ている間嶋と目が合う。あいつらの前で無様な格好を見せるなよとでも言っているかのようだ。

(わかってるよ)

 杷はハックを蹴り、ストーンを離す。今度は間嶋も手を出さなかった。懸命に氷を掃くブラシを追うように滑る黄色いストーンの軌跡がハウスの中央目がけて緩やかな弧を描き、最も中心に近い相手のストーンの真上に止まった。

 忍部が手を掲げたので、軽くタッチする。

 その後、内側にあった相手のストーンを押し出して同点に追いつき、7エンドのラストストーンで杷がダブルテイクを決めて逆転。

 無田・間嶋組が後攻となった8エンドを1点に抑え、忍部・久世組が6:5で勝利した。

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