7.フォース(3)

「――ヤップ!」

 忍部の合図と共に、両手で掴んだブラシを氷に擦り付ける。ぐっ、と体が前のめりになって踵が浮いた。その状態で、ストーンの動きに合わせて横歩きに移動しなければならない。

(ストーンのエッジの前だけ掃く……!)

 だが、歩きながら手元を動かすのは思っているよりも難しく、杷のブラシは足を進める度にストーンの前からずれていってしまう。

「こうするんだよ」

 いつの間にかすぐ近くに来ていた間嶋が、向かいからブラシを当てて無駄なく前後に動かした。

「敵チームなのに手を出すなよ」

 杷は思わず非難したが、間嶋はどこ吹く風で更にスイーピングを早める。

「腕に力が入り過ぎなんだよ。もっとブラシに体重を乗せて――馬鹿、それじゃ前かがみ過ぎる」

 スイーピングする間、散々こちらに文句をつけた間嶋はなんとかストーンを目的の場所へ運んだ後で、ハウスの中にしゃがんで到着を待っていた忍部の意見を求めた。

「どうだ?」

「うーん、もうちょっと腕の筋力が欲しいな。練習を続けていればそのうちついてくるとは思うけど」

 杷は息を切らせながら、インナーの上に着ていたスウェットに手をかけた。

「くっそ暑い」

 室温は5度と低く保たれているが、本気で動くとすぐに汗ばんでくる。脱いだ上着をベンチへ放り投げるのを見ていた無田がふと声をかけた。

「久世くん、それフィギュアやってた時のウェア?」

「え? ああ」

 無田の質問に頷きながら、何気なく着ているインナーを見た。真っ黒な長袖のハイネックで防寒性がよく、体にフィットするので動きやすい。フィギュアでは体の動きや形がわかりやすいように、こういう体のラインが分かる服装が練習着として好まれる。

「あったかいし、動きやすいからそのまま使ってるんだけど。なにかまずい?」

「いや、全然問題はないよ。ないんだけど、そういう格好してると人目を引くというか既に引いているというか……」

 遠まわしな無田の言い方が何を指しているのか、杷は承知していた。盛岡駅からバスで5分という交通の便がよい場所にあるこのアイスリンクは、同じホールにスケート用のリンクとカーリング用のシートが併設されている。これらを隔てるのは利用客なら誰でも行き来できる通路のみだ。

 杷が振り返ると、通路の隅からこちらを覗いている女性たちと目が合った。小さく手を振られて、ぺこりとお辞儀する。

 「きゃあっ」と小さな歓声が聞こえた。

(地元だからなぁ……)

 なにしろ、つい先月までは目の前にあるスケートリンクが杷の本拠地だったのだ。

「久世くんだって分かってるよね、あれ」

 無田は人の視線に慣れていないのか、明らかに居心地が悪そうだ。

「見覚えあるから、多分そう。大丈夫だよ、見てるだけで何もしてこないから」

「な、なにもしてこないって……すごい表現だね」

 感心と呆れが混ざり合った表情で、無田が言った。

「おい、次だぞ」

「悪い」

 立ち話をしていた2人を間嶋が呼び、杷はハックへ急いだ。

 散々、ビリヤードで練習したおかげで当てる角度の割り出しは慣れてきた。あとは、きちんとそこへ運べるかどうかだ。忍部の指すブラシの先だけを見据え、深呼吸してからゆっくりとハックを蹴り出す。手首をひねり、回転を加えたストーンが手を離れた。

 杷は膝に手をついて立ち上がり、滑るストーンとハウスで待つ忍部を交互に見やる。

掃くなウォー掃くなウォー

 忍部が大丈夫だと合図した。

 ほとんどブラシを使わないまま、杷の投げたストーンは黄色いストーンに張り付いていた赤いストーンをハウスの外へ弾き出す。

 ストーンが押し出される時のコンッ、という小気味よい音を杷は全身で味わった。

「やっぱりショットはいいね」

 続けて投げる間嶋のためにハウスから指示を出しながら、無田が褒めた。ちら、とその目が観客の方を気にしたが、彼女たちは楽しそうにスマートフォンをかざしてこちらの写真を撮るばかりだ。無田は咳払いして、何事もなかったかのように視線を戻した。

 前半の第4エンドを終えた時点で、スチールに2度成功した先攻の無田・間嶋チームが3点、第2エンドにダブルテイクを決めてファーストストーンとセカンドストーンを取った忍部・久世チームが2点。 

「ちょっとトイレ」

 休憩時間に入ってすぐに、間嶋がそう言ってリンクから上がった。無田と忍部はハウスの後方に立って相談している。

「久世くんのポジションだけどさ、サードだとどうだろう?」

「いいね」

 あっさりと忍部が同意した。

「俺はもともとセカンドだったし、久世くんが構わないならそれでいいんじゃないか」

「だってさ、久世くんどう?」

 ポケットに入れてあったペットボトルの水を飲んでいた杷は、首を傾げてみせた。

「俺はどこでもいいけど、セカンドとサードで何が違うんだ?」

「サードはね、バイススキップって言ってスキップが投げる時、代わりにハウスに入って指示するんだよ。だからスイーピングする回数が忍部や間嶋よりも少なくなるんだ。スキップの次に重要なポジションだけど、うちの場合は俺がリードに入ってるでしょ? そんなに難しい指示を出すことにはならないから大丈夫。対してセカンドはパワータイプがやることが多いんだ。相手のストーンを外に出すテイクショットが多くなるし、スイーピングも多く回ってくるから。久世くんならサードの方が合ってると思うよ」

「わかった。サードってことは、間嶋の前か」

「そう。失敗してもフォースの間嶋がどうにかしてくれるから、気楽に――」

 冗談めかして笑った無田の気を引いたのは、ホールに入って来る青紫色のユニフォームを着た一団だった。

「やば……花巻CCだ」

「確かそれ、前に間嶋がいたっていうカーリングクラブ?」

「うん。隣のシートで練習するみたいだ。間嶋に報せに行った方がいいかな」

 無田は厄介ごとは勘弁だとでも言いたげに、忍部の意見を求めた。

「気にしすぎじゃないか? 昔の話だろうし、練習中に揉めごとを起こすようなことはしないと思うが……」

 この時点では、杷はどちらかというと忍部の方に同感だった。バス停で平然と女子にサービスを出来る間嶋の厚顔さを考えれば、内心がどうあれ、あからさまな態度に出すようなことはしないだろうと思われたのだ。

「大丈夫かなあ」

 無田はそれでも心配そうな顔をしていたが、別の意味で彼が不安になるまでそれほど時間はかからなかった。

 いつまで経っても、トイレに行ったはずの間嶋が帰ってこないのだ。

 3人の間に微妙な空気が流れる。

 まさか、という予感と胸騒ぎがして、杷は自分から名乗り出た。

「無田、俺ちょっと見てくる。この建物なら慣れてるから」

「ああ、うん。頼んだよ」

 杷は靴を履き替え、脱いだスウェットを腕に抱えてホールの外に出る。一番近くにあるトイレを覗いてみたが、間嶋の姿は見つからなかった。

 念のため、他のトイレも確認したがやはり見つからない。

(あいつ、どこいったんだ? もしかしてどっかで花巻のやつらを見かけて、出てこれなくなってるとか……)

 奥にある控室や会議室の方へ行ったとは思えず、外かもしれないと考えて出口に向かう。受付の前を通り過ぎて外に出た杷の目を、雪に反射する真冬の眩い日差しが灼いた。肩が震え、持ってきたトレーナーを頭から被る。真冬はホールよりも外気温の方が低いくらいなのだ。

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