4.4人要るんだ(4)

(あれに当てるのか?)

 それは、最初に無田がブラシで示した場所よりもハウスの内側へ数十センチほど寄せたところに置いてある。杷の予想通り、途中で右に曲がり始めたストーンはスイーピングする間嶋に導かれるようにハウスの中へと吸い込まれていった。

「――」

 だが、あと少しのところでストーンの動きが鈍る。

 杷は固唾を飲み、冷たい氷の上についていた膝を上げた。遠くてよく見えないが、間嶋はまだ諦めることなくブラシを動かしている。

 ストーンに触れる本当にぎりぎりまで掃いていた間嶋がすっとブラシを引き抜いた直後、2つのストーンはコツン、と微かに触れ合った。ぶつかったというよりは本当に掠ったといった具合だ。

「さっきと同じようにって言っただろ」

 戻って来た間嶋がブラシで肩を叩きながらぼやいている。

「試合と同じでスイーパーがもう1人いればもっと楽に伸ばせたけどな。俺だけじゃあんなもんだな」

「なんでブラシで擦ると動きが変わるんだ?」

 杷は、目の前で鮮やかに動き始めたストーンを思い出しながら尋ねた。間嶋がブラシで氷を擦った途端、まるでエンジンがついているかのように滑り方が変わったのだ。

「ブラシで氷を擦って溶かすんだよ。そうすると薄い水の膜ができて、ストーンが滑りやすくなる。これで分かっただろ? カーリングは投げる人間だけじゃない、全員でストーンを運ぶんだ。無田!」

 呼ばれた無田が、慌ててリンクを滑って戻る。

「久世くん、カーリングやったことないんだよね?」

「え? ああ」

「ほんとに?」

 無田はひどく真剣な顔で、杷を見つめた。

「実は、やったことあるとかない? どこかで習ったことがあるとか」

「それは……」

 いまいち話の流れに乗れないまま、杷は探るように尋ねた。

「さっきの投げ方でよかったってこと?」

「そうだよ! 普通いきなり投げてあんな真っ直ぐにいかないよ!? なんで1回俺が投げるの見ただけであんな風にできるんだよ。おかしいから! ちょっとお腹触らせて」

 いきなり感情を爆発させると、無田は杷の腹筋の辺りを服の上から手で軽く押すようになぞった。杷はくすぐったくて身じろぐが、無田は構わずその調子で、脇腹、腰、背筋と筋肉のつき具合を確かめていく。

「あの、ちょっと、無田」

 それまで毎日のように行っていた練習を完全に辞めたのが半月ほど前で、覚えがある限り初めてゆっくり過ごすことのできた年末年始は、まさに寝正月そのものだった。体の緩みを自覚していた杷は、恥ずかしくなって言い訳をする。

「最近、運動さぼってたから。ぜい肉が……!」

「ぜい肉? これで? やっぱり、元々の鍛え方が違うんだ……細く見えてもしっかり筋肉がついてる。投げる時に体幹がぶれないはずだよ。これが一流の体かあ……」

 大きなため息をついて、無田はようやく手を離してくれた。彼は体の力が抜けたように苦笑してこちらを見上げる。

「頑張って練習してたつもりで、まだまだ全然、素人なんだなあって思い知らされたよ。ちょっと肩に力が入り過ぎてたみたいだ」

「そんなこと……俺は全部、コーチに言われたことをやってただけだから。無田は自分たちで考えてやってるんだろ? えらいよ。みんな、そういう個人でチーム作ってやってるのか?」

「いや、大学のサークルや地域のカーリングクラブなんかもあるよ。間嶋なんかはずっとそっちでやってたし。花巻CCカーリングクラブっていう東北じゃ結構強豪のチームでさ、なあ?」

 無田に話を振られた間嶋は、あからさまに話を無視してシートから上がってしまった。ベンチに置いた鞄からミネラルウォーターのボトルを取り、我関せずと喉を潤している。

 やれやれと、無田が肩を竦めて言った。

「あいつ、この話はほんと嫌いなんだよな。花巻なんてすぐ隣なんだから、試合で当たることだってあるのに」

「何かあったのか?」

「いじめ」

 ため息とともに、無田が答える。

「え?」

 思わず、杷は無田の顔と間嶋の背中を見比べた。

「それは、されてた方っていう意味で?」

「言いたいことはわかるよ……そういうのとはまるで縁がなさそうに見えるだろ。だから、クラブの責任者も間嶋に問題があると決めつけて、あいつの方を注意したらしいんだよな。それで自分から辞めたって。もちろん、俺は間嶋から話を聞いただけだから本当のところはわからないけど、あいつの普段の態度を見てるとさもありなんというか……」

 間嶋は蓋を閉めたミネラルウォーターのペットボトルをベンチに置くとしれっとした顔で戻って来た。

「無駄話してる暇があるなら、どんどん投げさせろよ。そいつ使えるから、今日中にデリバリーはひと通りできるようになってもらう。スイーピングは次回でいい」

「わかった。あと45分くらいか」

 無田は壁にかかっている時計を見上げて、ブラシを手に取った。

「飲み込み早いし、もうウェイトの投げ分けも意識してもらっていいよね。あれ持ってる?」

「ああ」

 間嶋がズボンのポケットから取り出したのは、スピード競技で使うようなストップウォッチだった。

 何に使うのだろうかと思っていたのは束の間で、間嶋はそれを使って杷が投げたストーンの速さを計り、速過ぎるとか遅過ぎるとかの指示を出し始めた。

「実際の試合じゃ、当てたあとのストーンをどこに止めるのかまで考えて指示するからな」

「冗談だろ。当たったあとの動きなんてどうやってコントロールするんだよ」

 すると間嶋はハックに足をかけ、引き寄せたストーンを手元でくるくると回しながら声を張り上げる。

「無田、ヒットアンドステイの後にヒットアンドロール!」

「ッ――」

 リンクの冷たい空気を鋭く震わせるような間嶋の声量に、すぐ近くにいた杷は思わず耳元へ手を寄せた。

「了解」

 無田が向こう側のハウスでストーンの準備を始める。

 間嶋は杷を追い払うように手を振った。

「あっち行って見てろ」

 言われた通りに無田のいる方に行くと、彼はハウスの中央より斜め左前にストーンを配置したところだった。

 杷が上から覗き込むと、無田は微笑んでブラシをストーンの前に置いた。

「それじゃ、いくよ。まずはヒットアンドステイ。相手のストーンに当てて、その場に自分のストーンを残す」

 間嶋の投げたストーンは無田の指示通りのラインに乗って、置かれたストーンを弾き出す。そして、さきほどの説明通りにほぼ同じ場所へ留まった。

「どうして?」

当てたからだよ。真正面からぶつけると、投げた方のストーンは反動でブレーキがかかるんだ。次、ヒットアンドロール」

 さっきと同じ場所に置き直されたストーンを、間嶋がもう一度狙う。

 だが、今度は当てる位置が違った。真正面ではなく、杷たちから見てやや右側に当たったストーンは相手のストーンを外に弾き出しながらハウスの中心部目がけて曲がっていった。

「違いがわかった?」

「なるほど。当たる場所でストーンの飛ぶ角度が変わるんだ」

「正解」

 ぱっと無田が笑顔になった。

「ストーンは必ず、当てた場所の反対方向へ弾き出される。だからショットの時は飛ばしたい方向の180度逆の位置を狙ってストーンを投げるんだ。そして、投げた方のストーンは弾き出したストーンが進むのと直角の方向に進む」

「へえ……」

「試合になるとすごいよ。お互いに有利なポジションを取り合って、1投ごとにストーンの位置が目まぐるしく入れ替わるんだ。オリンピックの時とか、テレビでカーリングの試合見たことない?」

「いや、冬はフィギュアのシーズン中でそんな暇なかったから」

「ああ、そうか。じゃあ録画したブルーレイ貸すよ。あと本も。詳しいルールとかはそれ読んでもらえればすぐにわかると思うから。――と、そろそろ時間だから片付けようか。お昼はうちへ食べに来ない? コーヒーショップやってるんだけど、軽食もあるからさ」

 駅方面の大通り沿いで無田の両親が経営しているのは、珈琲豆の計り売りと店内での飲食ができる洒落た建物の店だった。

 杷の頼んだチキンカツサンドは脂の乗ったやわらかい鶏肉と細かく千切りにされたキャベツにドレッシングソースの酸味がほどよく効いていて、癖になる味わいだった。無田はチェダーチーズにツナとみじん切りにした玉ねぎを絡めたホットサンド、間嶋は山盛りのクリームとラズベリーを乗せた高さが10センチはありそうなホットケーキををぺろりと平らげた。

「これ、返すのはいつでもいいから」

 サービスしてもらった温かいカフェオレを飲んでいる間に無田が自分の部屋から持ってきたのは、初心者向けらしいカーリングの教本と山積みになったディスクだ。

(全部、自分で覚えなくちゃならないんだな)

 ぱらぱらと本の中を見ながら、新鮮な気分になる。フィギュアスケートはこんな風にいちから学んだ覚えがない。気づいたらもう滑っていたし、新しいことを覚える時は全てコーチが手ほどきしてくれた。

「ありがとう、読んでおく。こっちは……多いな」

「これとこれがオリンピック関係ので、あとは最近の日本選手権とパシフィックアジアトーナメントの決勝リーグ。国内で放送があったのは大体録ってあるから見たいのがあったら言って」

 無田から借りた本とディスクの入った紙袋を下げて店を出た杷は、電車で帰る間嶋と別れた後でスマートフォンの画面を見つめた。

 4回転フリップを成功させたという天樹に、おめでとう、と一言送るべきなのだろうか。迷ったものの、何もしないままにスマートフォンをしまい込む。

 見上げた木の枝に、溶け切らない氷の層が冬の乾いた空を透かして輝いていた。

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