3.4人要るんだ(3)

 次の日の朝、朝食を終えた杷は台所で洗い物をしている祖母の手元へと自分の使った食器を下げに行った。

「お昼は用意しなくていいのね?」

「うん。夕方までには帰る」

「どこいくの」

「そこのアイスリンク。カーリングに誘われたんだ。ほら、氷の上で石を投げるやつ。そんなに激しい動きをするスポーツじゃないからさ」

 トレーニングウェアを着込んだ杷が答えた途端、祖母は心配げな顔になった。

「足は大丈夫なの? 無理しないように、ちゃんと気をつけなさいね」

「大丈夫だって」

 杷は安請け合いして、ティッシュやシューズの入ったボディバッグを背負うと玄関の戸を開けた。

 一月の乾いた冷たい空気と、冴えた青い空が杷を出迎える。軽く凍え、喉元を覆う薄手のネックウォーマーを顎まで引き上げた。

 昨日の夜、間嶋と話した後で彼から話を聞いた無田が連絡を寄越した。

 ひとしきり、杷が怪我でフィギュアスケートを引退していたことを知らなかった件について謝った後で、本当にいいのかと駄目押しをしてきたのだ。

『足もまだ本調子じゃないんだろ? 間嶋のことなら気にしなくていいからさ。あいつが自分勝手なのはいつものことなんだ』

「でも、人が足りないと困るんだろ」

『それは……そうだよ』

 そこで、無田は真面目な声になった。

『本音を言えば、久世くんがやってくれるならすごく助かる。うちなんかにはもったいないくらいだよ』

「あんまり期待するなよ。こっちは初心者なんだから」

『氷の上をうまく滑れるってだけで全然心配ないって。誰にでもできるんだから、カーリングってやつはさ。まずは、基本的な動作とかルールを教えるから明日の9時に今日と同じアイスリンクまで来てもらっていいかな』

 国道沿いの一段高くなったアスファルトの歩道を歩きながらスマートフォンで時間を確認すると、約束の時間まであと15分ほど。メッセージの着信に気づき、中を開いた。

 ――天樹が4回転フリップを跳んだぞ。

 どくん、と心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受けて、杷はその場に立ち止まった。

(天樹が――)

 いったい、どちらが先に4回転を跳ぶか。揃ってシニアに転向した時、「勝負だな」と言った天樹の屈託のない笑顔がありありと思い出された。

「…………」

 まるで置いてきぼりをくらった子犬のような気分で立ち尽くしていると、不意に後ろから声をかけられた。

「おい」

「うわっ」

 驚いて振り返ると、間嶋が仏頂面で立っている。

「道端で大声出すなよ」

 彼はどうやら、バスを使わずに駅から歩いてきたらしい。ならいきなり声をかけるなよという言葉を飲み込み、杷はスマートフォンを隠すようにしまった。

「悪かったな、こんなところで突っ立ってて。邪魔だったんだろ」

「お前、足のサイズいくつ?」

 間嶋は昨日と同じようなスポーツウェア姿で、ポケットに両手を突っ込んだ格好だった。

「26.5」

「ふうん」

 間嶋は嘘がないか疑うような目で杷の顔と足元を見比べてから、興味をなくしたように脇を通り過ぎた。

「おい、待てよ。いったい何のために聞いたんだよ」

「サイズが同じなら前に使ってたシューズやろうかと思ったんだよ。カーリング用のシューズって、こう、片足の裏だけ滑りやすい材質になってるんだけど」

 間嶋の指先がすらすらと靴の形を描いた。

「へえ。で、お前はいくつなんだよ」

「どうでもいいだろ、サイズが違うならそれでいいんだよ」

 わずらわしげな反応に、内心でこれは勝っているのだなと理解する。うっかりと叫んでしまった不覚の気分が和らぎ、杷は間嶋の右隣に並んで歩いた。

「じゃあ、年は? 俺は高2。杜陵学院に通ってる」

「無田と同じ。盛岡西高校2年」

 へえ、と杷は相槌をうった。

 学区だと人気の高い、中の上くらいのランクに当たる県立高校だ。女子のセーラー服が特徴的で、ラインのないカラーにシルバーのスカーフがかわいいと評判だった。

「じゃあ、無田とは学校で知り合った?」

「まあ、そうだな」

 いまいち話題の弾まない間嶋と連れ立ってアイスリンクに入ると、無田は既にシートで準備を始めていた。

「おはよう。運動靴は持ってきてくれた? 取り合えず今日はこのスライダーをつけてやってみよう。利き腕は右だよね。なら、左足の靴に被せて」

 無田が差し出したのは、氷上を滑るための素材を張り付けたゴム製のフットカバーだ。上着を脱いで、持ってきていた内履き用の運動靴に履き替えた杷はそれを言われた通りに装着する。

「あ、ほんとだ。滑る」

 スライダーを被せた方の足を軸にキックボードの要領で氷を蹴ると、すい、と身体が前に進んだ。

「へー……」

 もちろん、エッジのついたスケート靴と違って面で滑るので、小回りは効かない。

 氷の発する冷気が皮膚の上で滞留する。長い年月をかけて仕込まれた身体中の筋肉が目覚めていく感覚。

 脳裏を、まるで翔ぶように雄大なジャンプを決める天樹の姿がよぎった。あいつも今ごろは氷上を滑っているに違いないと思うと、うずいてたまらない。

(まだ滑りたいのか)

 素直に訴えてくる身体に苦笑した杷は無田たちのいる場所まで戻り、彼の足元にある丸い石を覗き込んだ。

 広げた手のひらよりもやや大きい、よく研磨された石の上部に赤いハンドルがついている。

 ストーンと呼ばれるカーリング専用の石だ。

「結構重そうだな」

「20キロある」

 間嶋が脇にしゃがみ、ハンドルを持って裏返した。少しくぼんだ中央部の周りを手袋越しの指先でなぞるのを、杷は両手を膝について見つめた。

「このくぼみがカップ。縁の部分をランニングエッジといって、ここが氷上に接することでストーンが動く」

 なるほど、と杷は頷いた。この重たげな石がどうして軽妙に滑るのかと思っていたが、スケートと同じく氷に接するのは細いエッジのみというわけだ。

「そこに黒い突起があるだろ」

 間嶋が顔を上げる先に、陸上のスタート台に似た形の突起が2つ見えた。氷の上に取り付けられたそこを踏むように、無田が右足をかける。

「片脚だけ?」

 それこそクラウチングスタートのように両脚をかけるのかと思っていた杷がたずねると、無田は軽く笑って答えた。

「そう見えるよね。これは右投げと左投げで使う場所が違うんだ。右手で投げる場合は、こうやって左側の突起――ハックって言うんだけど――に右足を乗せてしゃがむ。体は正面、投げる方を真っ直ぐに向いたままでね」

 説明しながら、無田は実際に杷の目の前でストーンを投げてみせた。

 右手で緩くストーンのハンドルを持ち、背筋を伸ばしたまますっと腰を上げる。左手に持った長い柄のブラシでバランスを保ちながら、ゆっくりとハックを蹴って前に滑り出した。手元に少しだけ力を入れてハンドルを僅かに左へ回したのを杷は見逃さなかった。

 無田の手を離れたストーンは反時計回りに回転しながらまっすぐに滑り、遠く見えづらくなったところで左へとカーブする。

「これだけ」

 緊張していたのか、無田は照れくさそうに笑った。

「ストーンのウエイトは腕の力じゃなくて蹴る時の力で決まるんだ。そして、そのウエイトによってどこに止まるかが決まる。もちろん、投げるだけで狙ったところになんか止められないからこいつで氷を擦って距離を調整するんだ」

 彼が掲げたのは左手に持っていたあの柄の長いブラシだ。小型のデッキブラシに似ている。ただ、そのヘッドは毛ではなくて黒板消しのような四角いナイロン製だ。

「ひとりが投げて、ふたりがこのブラシで掃く。そして、もうひとりがどこへ投げるかを指示する。だから、カーリングは4人要るんだ」

「ミックスダブルスもあるけどな」

 間嶋が口を挟む。

「ダブルスの場合は2人しかいないから、投げたらすぐに自分たちでスイーピングする」

「スイーピング?」

「〝掃く〟ことだよ。ちなみに、ストーンを投げるのはデリバリーっていうから覚えとけ」

「ふうん……投げてみてもいい?」

 杷は立てかけてあったブラシを借りてハックに靴裏を乗せた。屈むと、左膝が胸の下、右膝が氷と接する形になる。ハックを蹴る方が痛めた右膝になるので、杷は少しだけ、サポーターの具合を確かめるように身じろいだ。

(問題ないな)

 頷いて顔を上げると、シートの向こう側に移動した無田が手を振っていた。

「久世くんー、ここ!」

 距離にして40mはある。

 声を大きく張って、ようやく聞こえる距離だ。

 無田が白いブラシの柄を掲げ、それからぴたりと氷の上に置いた。ここを狙え、という意味だろう。

「遠いな」

 軽く驚いて、杷は右手の手袋を脱いだ。

 さっき、無田が投げる時にそうしていたからだ。素手でストーンのハンドルを握ると、確かに手袋越しの時よりも力を細やかに伝えやすい。

「まずは時計回りインターンからだ。ハンドルを左斜め、10時の方向に向けろ」

 間嶋に言われた通り、杷はハンドルを六十度ほど左に傾けた。

「いいか、ストーンをリリースする時にちょうどハンドルが12時を向くように手首だけを使って回転をくわえる。回し始めるのはストーンを離すリリースポイントの1m手前からだ」

「リリースポイントっていうのは……」

「ここだ。ハックから約10m離れた先にある、ホッグラインと言われるこの線までにストーンから手を離さないと無効になる」

 間嶋は氷上を歩き、リンクの横に引かれた線をブラシの先でとんとんと示した。

「視線は無田の指示するブラシから離すな」

 頷き、先ほどの無田が見せてくれたお手本を脳裏に思い描きながら、その通りにハックを蹴った。そっと手を離すとストーンは緩く回りながら無田の元へと滑っていく。途中まではよかったのだが、半分を過ぎたあたりで軌道がゆるやかにカールしてストーンは無田の目の前を右に曲がっていってしまった。

 自分から逸れていくストーンを見送った無田が何か言う前に、間嶋が声を上げた。

「掃くか?」

「うん。ハウスにストーンも置こう」

 はっとしたように無田が答え、ストーンのひとつを的の中にぽつんと置いた。どうやら、あの的をハウスというらしい。

「えっと……」

 果たしてさっきの投げ方でよかったのか悪かったのか、杷が戸惑っていると無田の張り上げる声が聞こえる。

「久世くん! さっきと同じところに投げて、速さも同じで。間嶋がスイーパーをやるから」

「同じところって、あれじゃ曲がって駄目だろ? 無田の指した場所からずれていっちゃった」

 ブラシを持って脇についた間嶋に確かめると、あっさりと言われた。

「ストーンは曲がるもんなんだよ」

「なんで?」

「回転力と摩擦力の差が……後で説明するから、とにかくもう一回同じように投げろよ、いいな」

 言われた通り、杷は次のストーンを手にしてハックを蹴った。だが、手元を離れたストーンはさっきよりも明らかに勢いがない。

 滑るストーンの傍についた間嶋が無田に向かって叫んだ。

「ラインは?」

「乗ってる。間嶋、ヤップ! ヤップ!」

 その掛け声が掃けという意味だというのは、すぐさま間嶋がブラシでストーンの前を擦り始めたことで理解できた。

「早まった?」

 間嶋がブラシで氷を掃いた途端、まるで磁石か何かで引き付けられたかのようにストーンが生き生きと滑り始めたのだ。

「もっと強くハード!」

 無田が叫ぶ。

 滑り続けるストーンの脇についてシートを移動しながら、間嶋は更にブラシを動かす手を早めた。時おり、ハウスに置かれたストーンまでの距離を計るように顔を上げる。

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