2.4人要るんだ(2)
「さっちゃん、お湯が冷める前にお風呂入りなさい」
階下から聞こえる祖母の声かけに、自分の部屋のベッドに寝転がっていた杷は生返事をした。ひとりで使わせてもらっている広いフローリングの洋間。東向きの窓辺に置かれたベッドの隣には、背の高いスライド式の本棚がある。
(どうしよう)
ずっと弄んでいたスマートフォンをベッドに置いた杷は、その本棚から一冊の雑誌を引き抜いた。
昨シーズンの秋、ISUグランプリシリーズの一環であるNHK杯直前に発売された号だ。フィギュアスケート若手特集、と銘打った表紙には2人の男子選手の写真が大きく載っている。片方は杷で、もう片方は天樹という同い年の選手だ。出身地は杷が岩手、天樹が北海道と離れていたが、全国大会では必ず顔を合わせる相手だった。
――〝天衣無縫〟
NHK杯で注目したいのは、今年度からシニアデビューした天樹(16)と久世(16)の両選手だ。
天樹は長い手足を生かしたダイナミックなスケーティングが持ち味の表現力豊かな選手。シニア初となる今シーズン、演じるのはダンス映画で主題歌に採用されお馴染みとなった『Shall we dance?』と王道かつ難曲と言われるあの『ボレロ』。躍動感あふれる軽快な振り付けは先月のカナダ大会でも高い評価を得ている。特に深いエッジから放たれる美しいイーグルは必見。
一方の久世は、昨年の全日本ジュニア選手権王者。選曲は『我が祖国』より《ヴルタヴァ》、そして世界中で爆発的な大ヒットを記録したエド・シーランの『Shape of You』。どこか懐かしさを感じる叙事的なリズムを繊細なステップと抜群の色気で演じる芸術性の高い滑りは観客の心を引き込んで離さない。近年は怪我に泣かされてきたが、天樹とはジュニア時代からのライバル。復権をかけて勝負に臨む。
巻頭で特集されているカラーページをめくると、それぞれのインタビューが載っている。そつのない受け答えをする杷とは対照的に、天樹は自分の思ったままを素直な言葉で綴っていた。
――久世選手とはジュニアの頃から表彰台を争う仲ですが、天樹選手から見た久世選手はどのような印象なのでしょうか。
ラスボス(笑)。魔性っていうか、魔王ですよあれは。見た目に騙されてはいけない。不思議じゃないですか? ゲームなんかで主人公は最初は弱くて、少しずつ強くなっていくのに、敵の魔王は最初から最強なんです。俺にとっての久世は、まさにそんな感じ。ノービスの全国選手権で初めてあいつの滑りを見た時、同い年の子どもが『カルメン』のホセをこんな見事に演じるのかって愕然としました。それで思ったんです。久世はフィギュアに愛されてるんだって。
――それは、天賦の才能があるということですか?
うーん、そういう能力的な問題じゃなくて、もっと依怙贔屓的な……とにかく、そういう意味では久世に勝てないと思ったものだから、じゃあ俺は逆を目指そう。「誰よりもフィギュアを愛してやる」って、そう決めてずっとやってるんです。
フィギュアスケートでは13歳から19歳のクラスをジュニアというが、更にその下にノービスという14歳以下のクラスがある。
天樹は、ノービスの頃は全国常連ではあったものの入賞には一歩及ばぬ成績だった。それが、成長期を迎えたジュニアの頃から急激に伸びたのだ。
一方で、杷のピークは優勝した全日本ジュニア選手権の時まで。それ以後はもともと痛めがちだった右膝が悪化して、まともに練習をすることもままならなくなった。
海外からも強豪が集まったこのNHK杯で堂々と自分の滑りを見せた天樹は3位に入賞。膝の故障を抱えて出場した杷は一日目の
(もう、競技はいいよ)
自分に言い聞かせ、杷は登録された番号を削除しようとベッドに放り出してあったスマートフォンに手を伸ばした。
「…………」
だが、なぜか、どうしても後ろ髪を引かれて指が止まる。その時を見計らったかのように着信があったので、杷はどきりと竦みあがった。
母からだ。
彼女は両親に杷を預け、東京に単身赴任している。
「はい」
慌てて電話に出ると、やや疲れたような母の声が返った。
『もしもし? まだ起きてた?』
「うん。仕事終わったとこ?」
『そうよー、今日は打ち合わせが多くて疲れちゃった。ほら、あなたのためにお金稼ぐ必要もなくなったし、少しゆっくりしようと思うのよ』
嫌な予感がして、杷は神妙に聞き返した。
「ゆっくりって?」
『だって、あなたのフィギュアスケートにかかるお金がいくら必要だったと思う? 半分はおじいちゃんが出してくれたけど、私も頑張って稼がなきゃとてもじゃないけど足りなかった。でも、もう辞めたならその必要はないでしょう。仕事は減らすから、こっちに来て一緒に暮らしましょうよ』
唐突な母の申し出に、杷はもう少しでスマートフォンを床に落とすところだった。
「一緒に暮らすって、えっ……だって、学校は?」
『転校すればいいじゃない。わざわざ融通の利く私立に行かせてたのも、フィギュアのためだったんだもの。あなたが引退してお母さん気が抜けちゃったわ。しばらく有給とって旅行に行くのもいいかな。杷はどこがいい?』
「――」
本気なのか、と杷は今度こそ言葉を失った。
確かに、何不自由なくフィギュアスケートをやるために協力してくれていた母には感謝すべきだろう。
(だからって、今さら母親と2人暮らし? 東京で?)
困惑と照れくささがない交ぜになって、杷はとにかく母の気が変わるまで時間を稼がなくてはならないと口を動かした。
「いや、でも、俺ずっとここで暮らしてるし、じいちゃんとばあちゃんの手伝いもあるし――」
『なあに、造酒屋を継ぐ気でもあるの?』
母の声色が途端に低まった。
祖父が杜氏をつとめる『ひさかた酒造』は結構な歴史のある造酒屋なのだが、一人娘の母は後を継ぐのを望まず、早くに家を出た経緯がある。
「そうじゃないけど……」
『じゃあ、いいじゃない。お正月はずっと出勤だったから、すぐに休みとれるのよ。来週には迎えに行くから――』
「ちょっと、待って」
はっと思いついて、杷はとにかくこの場を切り抜けるために言った。
「ある。こっちでやることあるから、そっちには行けない」
『なにそれ? 嘘じゃないでしょうね』
「ほんとだから。後で説明するから!」
強引に押しきって、文句を言われる前に通話を切る。
それから、僅かに迷ったものの、決心が鈍る前にと思いきって登録されたばかりの番号を呼び出した。
『はい、間嶋』
まるで電話がかかってくるのを承知していたかのように、ワンコールで繋がる。
「あ、えっと……」
『サライ?』
どうやら、相手はこちらの名字までは覚えていないようだった。家族以外にその変わった名前で呼ばれるのは気恥ずかしくて、杷は慌てて名乗った。
「久世。久世杷。サライは木偏に巴」
『ああ、久世ね。なんでそんな変な名前なんだ』
「じいちゃんが谷村新司のファンなんだよ。『サライ』って歌知ってる?」
『ああ。どういう意味』
「よく分かんないけど、ペルシア語で家とか宿? とか……」
祖父は単に好きな歌手の曲名をつけただけなので、意味については杷が自分で調べたのだ。
――話が逸れた。
「あのさ。カーリング、やってもいいよ」
杷は口早に言った。
「フィギュアスケートは怪我で辞めたんだ。どうせ他にやることもないし、競技はともかく、運動自体は何かやりたかったから」
おかしいな、と首を傾げる。
自分はどうして、たかがカーリングを始めることに対してこんな言い訳じみたことをしゃべっているのだろう。
母と東京で暮らすことから逃げるための口実だからか、それとも、と杷は電話の向こうで黙って聞いている間嶋のことを思った。
(こいつが、何も言わないでいるからなのか――)
昔からスケートの大会などで大人たちと接する機会が多かったせいか、杷は人見知りというものをしない性格だ。親元を離れて祖父母の家に預けられていても、それで困った記憶はない。
にも関わらず、間嶋が相手だとまるで何を考えているのか分からなくて戸惑うのだ。
「話聞いてる?」
『ああ』
いい加減、じれったくなって聞くと、短い相槌が返る。
『わかった。無田には俺から言っておくから、話が通ったら折り返しそっちに連絡させる。それじゃ』
用件のみを告げて勝手に切れたスマートフォンを見つめ、杷はやはり何を考えているのか分からないやつだと首をひねったのだった。
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