ヤップ!

ツヅキ

1.4人要るんだ(1)

 日本酒の入った瓶のガラス面に一枚ずつ、墨絵に品名を記したラベルをぺたりとはりつけていく。

 一月も六日を過ぎ、すっかり正月気分も落ち着いた小寒の朝。岩手県盛岡市で造酒屋つくりざかやをしている祖父宅の小さな直販所で出荷のためのラベルはりをしていた久世くぜさらいは、祖母にお使いを頼まれた。

「さっちゃん。それが終わったら御社おやしろの宮司さんに品物を届けに行ってもらえる? 初物ですよって」

 祖母の差し出す一升瓶の入った風呂敷包みを、杷は二つ返事で受け取った。

「冬休みなのに朝から手伝わせちゃって悪いわねえ」

「べつにいいよ。今年からはもう暇だから」

「あんなに上手だったのにねえ」

 残念そうにため息をつく祖母に、杷は曖昧な笑みを向けた。

 物心つく頃からやっていたフィギュアスケートを辞めたのはつい先月のことだ。くすぶるように痛む右膝の状態が改善されず、今シーズンを棒に振ることがわかった時、ずっと堪えていた気持ちが切れてしまった。

「しょうがないよ」

「まあねえ、そうだけどねえ」

「じゃ、いってきます」

 杷は話を打ち切り、白い息を吐きながら氏神を奉る神社まで使いに走った。その帰り道、昔からずっと通っていたアイスリンクの前で足が止まる。


(……スケート、やってた時は結構もう辞めたいって思ったこともあったんだけど)

 とにかく、きつい練習がなんぎだった。

 辞めると決めた時の、重い肩の荷が下りたような解放感をまだ覚えている。

(せっかく楽になれたのに、なんで未練がましくこんなところで立ち止まってるんだろ)

 他にもやれることはたくさんあるはずだ。

 時間がなくて観に行けなかった映画をレンタルするとか、同級生とどこかへ遊びに行くとか。なのにいざ自由な時間ができると、どれもその気が起きない。

 ずっと打ち込んできたスケートを失った杷には、これから自分が何によって立てばよいのかまるでわからなかったのだ。

「…………」

 中に入るか? と自問する。

 現役を引退したからといって、プライベートでも滑ってはいけないという決まりはないはずだ。体は慣れ親しんだ氷の匂いを懐かしんでいる。

 もう、何日滑っていない?

 まるで麻薬のように、氷上を滑る感覚は杷の体の奥底まで染みついて、禁断症状のような餓えを訴えてくる。

 乾いた唇を濡らすように舐め、杷は「少しだけ」と言い訳して自動ドアをくぐった。昼間の営業時間中に訪れるのは随分と久しぶりだ。選手でいた時は客のいない早朝か夜中にリンクを借り切って練習するのが常だったからだ。

「えっと、高校生1枚……」

 だが、券売機でチケットを購入しようと財布を探る手が空振る。そこで杷は遅ればせながら、財布を持って出なかったことに気づいた。高校生300円の表示を見ながら着ているマウンテンパーカーやジーンズのポケットを探るも、商店街で買い物をした時にレシートごと突っ込んだお釣りの数十円しか見つからない。

 諦めて帰ろうとした杷の脇から、すっと手が伸びてきた。

「え?」

 日に焼けていない指先が千円札を券売機に入れた途端、ボタンが光る。驚いて顔を上げると、杷とそう変わらない年格好の男子がすぐ隣に立っていた。

「高校生?」

 やや長めに下ろした前髪の合間から値踏みするような目つきで聞かれ、杷はいぶかしみながらも頷いた。

 その瞬間にボタンが押され、ピッ、という電子音と共に入場券が出てくる。

「ほら」

 彼は人差し指と中指の間に挟んだそれを杷に向かって差し出した。すっきりと薄いまぶたを覆う前髪と左右のこめかみにかかる部分は少し長めに残してあるが、耳の後ろからうなじにかけてはこざっぱりとカットしてある。ついさっき理容室に行ってきたばかりのような隙の無いたたずまいに気おくれを覚えた杷は、寝癖がついたままの後ろ髪を無意識に弄った。

「いや、なんで?」

「滑るんだろ」

 やけに通る声で、そいつは不愛想に頭を傾けた。

 着崩したスポーツウェアの淡い青灰色ブルーグレーが映える、すらりとした立ち姿の主だ。身長は杷よりやや高く、間近で向かい合うとほんの少しだけ見上げる形になった。

「そのつもりではいたけど……」

「うまい?」

 率直に聞かれ、杷はどきりとした。

「……まあ、それなりに」

 微妙に濁すと、微かに頷くような素振りで券を持った手をさらに突き出す。

「なら、これ持ってついてこい」

 勢いに押された杷が答えられないでいると、彼は「こい」と繰り返して杷の二の腕を掴み、入場口へ歩き出した。

「え、ちょっと」

「こいつの分」

 杷を指差しながら係員に券を渡して、リンクに繋がる貸靴室のドアを引き開ける。もし、相手があやしい大人だったりしたらこの時点でもっと真剣に抵抗したのだろうが、年の近そうな男子だったことが杷の警戒心を緩めていた。

「靴、借りないと」

 有無を言わせない強引な行動のわりにどこかよそよそしい雰囲気の横顔に気を取られていた杷は、彼がスケート靴に履き替えもせず、そのままリンクのあるホールへ出ようとしているのを知って声を上げた。

「そっちには用がないからこのままでいい」

 彼はスケート靴の陳列された棚の前を素通りして、杷を連れたまま厚いガラスドアを引き開ける。

「ッ……」

 ホールに出た瞬間、ふたりの体を大量の氷が発する独特の冷気が包み込んだ。

(――リンクだ)

 スケート靴のエッジが氷を削って滑る音が、杷の体に武者震いのような興奮を呼び覚ます。

 冬休みも終わりに近い時期のスケートリンクは、思っていたよりは混んでいなかった。歓声を上げながらローラーのついたコーンに掴まって滑る子どもを眺める杷を、名も知らない男子は無言のままホールの奥まで引っ張っていく。

「おい、見つけてきたぞ」

 声をかけた先にいたのは、ホールの一番壁際に置かれたベンチに座って俯いているハーフリムの眼鏡をかけた男子だった。癖の強い黒髪を抑え込むように三つ編みの房が下がった耳あて付きのニット帽を被っている。

(あれ?)

 妙な既視感に首をひねっている間に、彼は杷を連れてきた方の男子に向かってため息まじりに問いかける。

間嶋まじま? 見つけてきたって、何を?」

「代わりのやつ。取り合えず滑れればどうにかなるだろ」

「代わりって……もう大会は来月なのに、いちから教えてる暇なんかないよ」

 彼は諦めたように肩を落として、ぼんやりと中空に視線をさまよわせた。その生気の無さが、杷の心をざわめかせる。

「俺がやる気を出すといっつも空回るんだよなぁ。たかが4人しかいないチームひとつ纏められないんじゃ、スキップ失格……」

 重いため息。

 すぐそばのリンクで楽しそうに滑る子どもたちとの差もあいまって、身を縮こまらせた姿はいっそう惨めに見えた。

「そういえば、代わりを連れてきたって言ってたけど……」

 彼の注意がはじめて杷に向いた途端、驚いたように両目が見開かれる。

「え? 君、もしかして久世くん!?」

 杷はぼんやりとした記憶を手繰り寄せた。やや小柄な、人のよさがにじみ出ている眼鏡の男子。まさか、と問いかける。

無田なしだ? 小中同じだった」

「そうだよ! 無田龍臣。うっわ、ひさしぶり。変わってないなー」

 懐かしそうに破顔一笑した無田は、杷の隣にいる男子――間嶋というらしい――を見上げて言った。

「お前、まさか久世杷だって知ってて連れて来た……わけないよな」

「サライ?」

 きょとんと、間嶋が聞き返す。

「やっぱ知らないんだ? 一度聞いたら忘れない名前だもんな」

「知るかよ。年が近くて運動神経のよさそうなのを見つけて来ただけなんだから。お前、カーリングやったことある?」

「カーリング?」

 それでようやく、連れてこられたのがスケートリンクに併設されているカーリング用のシートだということに気がついた。

 細長い長方形に区切られたシートの両端には赤と青で色分けされた的のようなサークルがひとつずつ描かれている。

 よく見れば、無田が座っているベンチの脇にブラシのような器具が立てかけてあった。確か、あれで氷の上を掃いて投げたストーンを的に入れる競技をカーリングというはずだ。

「……ないけど」

 それ以外に答えようのない杷を、無田が庇うように立ち上がった。

「あるわけないだろ。久世くんはずっとフィギュアスケートやってんだからさ」

「ああ、それで」

 そいつはまた、無遠慮に杷を眺め渡した。

「やけにバランス感覚がよさそうな体してると思ったんだよ」

 まるで人を物のように言うやつだ。杷はどんな顔をすればよいのか分からないまま、話の通じる無田の方に顔を向けた。

「無田、カーリングやってるのか?」

「え? ああ、うん」

「いつから」

「中学の時から。それで、来月の初めに大会があるんだけど1人来れなくなっちゃって」

 なぜか気恥ずかしそうに頭をかいた無田は、肘でもうひとりをつつき、諫める。

「でも、いくら人が足りないからって久世くんは駄目だよ。ごめんね、忙しいところに変な声かけちゃって」

「あ、いや……」

 もう辞めたのだという言葉が喉まででかかった。

 ジュニアの頃はともかく、シニアに転向してからは怪我でぱっとしない戦績が続いていたから、杷の引退はメディアでもそれほど大きく扱われていなかった。

「やらないのか?」

 間嶋の一方的な問いかけに、杷は困惑して眉根を寄せる。

「ていうか、代わりが必要って何があったんだ? 大会前にいきなり抜けるなんてあんまりだろ」

「あー……」

 無田の顔が見る間に影を帯びる。

「えっと、方向性の違いってやつ……かな」

「は?」

 遠まわしな言い方に杷が首を傾げると、間嶋が肩を竦めて後を引き継いだ。

「やる気のないやつには辞めてもらったほうがいい」

「でも、確かにちょっと練習がきつかったかもしれない。基礎が大事だとか言って、地味なトレーニングばっかりやってたし……」

「だからって、楽しければそれでいいなんてのは俺の方がごめんだからな。あいつに合わせて適当こくなら、今度は俺が辞める」

「だから、そこはお前の言い分を尊重してやっただろ。あいつとお前じゃ、お前に辞められる方が困る」

 無田らしくもないシビアな物言いに、杷は少なからずどきりとした。

 同じ学校に通っていた頃もあまり親しく話したことはなかったが、おとなしそうな見た目の通り、温厚な少年ではあったはずだ。なのにまるで人を天秤にかけるような言葉を発したので驚いたのだった。

「本格的にやってるんだな」

「はは。久世くんに比べたら十分、趣味だけどね。いいから戻りなよ。ごめんね、こっちの問題に巻き込んじゃってさ」

「ああ……」

 無田に手を振られ、杷は答えをうやむやにしたままその場を去ることになってしまった。せっかく入場料を払ってもらったのにもったいないが、ふたりの目の前でのん気に滑り始めるのも気が引ける。仕方なく家へ帰ろうと貸靴室を出たところで、間嶋が追ってきた。

「スマホ」

「え?」

「いいから、出せよ」

 言われるままスマートフォンを取り出すと、間嶋は手早く自分のそれをかざしてアドレスを送った。

「気が変わったら連絡しろよ」

 振り返りもせずに戻っていく背中がドアの向こうに消えてから、『登録しますか?』という質問とともに画面に表示された番号と間嶋まじま斗馬とうまという名前を、杷は不思議な気持ちで見つめたのだった。

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