5.フォース(1)

 冬休み開け、学校帰りのバスに揺られながら久世杷は小さなあくびをした。無田から借りた録画を観ていたらつい寝るのが遅くなってしまったのだ。

(けど、だんだんわかってきた)

 カーリングは、ハウスの中心に最も近い場所にストーンを入れたチームに得点が入る。

 それも、1点のみではなくて、相手のストーンよりも内側に入ったストーンの数だけ得点として認められるのだ。

 そして、得点をとったチームは次のエンドで先攻にまわる。基本的に後攻が有利なため、次のエンドで後攻をとるためにわざと相手に点をとらせるといった戦略が取られることもあるくらいだ。これを第10エンドまで繰り返す。ちなみに、どちらのチームにも点が入らなかった場合はブランクエンドといって先攻と後攻はそのままで次のエンドが始まる。

 無田は自分が指示するから難しいことは分からなくても大丈夫だとは言うが、やはり、意味や意図が分からないとうまく体は動いてくれない。

 何回か練習に参加して、投げること自体は形になってきたものの……戦略の部分は付け焼刃ではどうにもならないところだ。

(練習試合とかしないのかな)

 やり方がわかってくると、実地で試したくなる。

 次の練習を待ちわびて、杷はぶり返すあくびをやり過ごした。カーリング施設は数が少ないため、大会前や土日は予約が取りづらくなるのだと無田が言っていた。大会までの日数を考えると一日でも多く経験を積んでおきたいところだが、私立で融通の効く杷はともかく、公立の無田や間嶋に授業をさぼらせるわけにもいかない。

(この時期に学校皆勤とか久しぶりだよなあ……)

 学校指定のマフラーに顔を埋め、小さく息を吐き出した。紺色の制服は前を開けて羽織った無地のブレザーと同色のズボン。杜陵学院の頭文字イニシャルであるTの飾り文字が胸元に刺繍されたカーディガンは柔らかなベージュで、ネクタイ無しのボタンダウンシャツの胸元が寂しく見えないよう、襟と裾には臙脂と紺色のラインが入っている。

 肩に食い込む重い学生鞄をかけ直したところで、バスは盛岡駅東口のターミナルに停車。下校時間で混み合うバス停に降り立ち、ふと見知った顔を見つける。

 前のボタンをひとつふたつ留めただけの制服はよくある黒い詰襟で、ざっくりとしたローゲージのスヌードとやや紫がかったグレーのスクエアデイパックを身につけている。防寒のために着込んだニットの袖と裾が制服の下から僅かに覗いて見えた。イヤホンをつけてスマートフォンをいじっている横顔は間嶋のものだ。

 降雪量の多い東北では滑りやすい革靴ローファーを避ける学生が多い。指定されたキャメルブラウンの紐靴を履いた杷とは違ってさまざまな色形のブーツが入り乱れる群れの中で、間嶋は柱の近くに立ち止まったまま動かないでいる。

 何をしているのだろうと思っているうちに、すぐ隣にいた同じ学校の女子生徒が耳元で何か囁くような仕草をみせた。間嶋はイヤホンを取って身を屈めると、相手の頬へ掠めるようなキスをする。

「――」

 顔を上げて再びイヤホンを戻そうとする間嶋と、ばっちり目が合ってしまった。

「じゃあね」

 間嶋と別れた女子だけが、軽い足取りで杷の脇を通り過ぎて駅の中へと消えていった。

「……彼女?」

 気まずいままたずねると、間嶋はあっさりと首を振った。

「違う」

「じゃあ何であんなことしてたんだよ」

「サービス」

 彼はスマートフォンを弄って音楽を止めると、イヤホンごとポケットの中にしまい込んだ。

「しないと女は機嫌が悪くなる。付き合うなんて誰がするかよ、面倒くさい」

 後半は杷にではなくて、彼にサービスを求める女たちに言っているように聞こえた。ふと、杷が思い出したのは母からの電話だった。カーリングを始めたことを報告したら、一緒に暮らせない理由がそんなことなのかと思いきり呆れられてしまった。

「面倒ってのは分かるかもしれない」

 ぽつりと、杷は言った。

「自分が大切にされてる気がしないと不安になるんじゃないかな、多分。でも俺、演技の応援されるのは嫌いじゃなかったけど」

 ジュニアの試合であっても、全国や世界大会になると足しげく通ってくれるファンも少なくない。たとえ演技内容が悪い時でも、一生懸命に観戦してくれるそういう存在は救いになったものだ。

「それはお前が――」

 言いかけて、間嶋が口をつぐむ。

「なんだよ」

「べつに」

「言えよ、気になる」

「たいしたことじゃない。俺は行くところあるから」

「どこに?」

「お前には関係ないとこ」

「だからどこだよ」

 しつこくたずねると、間嶋が諦めたように振り返る。手を差し出して、「500円」と言った。

「割り勘する気があるならついて来いよ」

「何の……」

 だが、間嶋は答えずに手だけを動かす。

 杷は鞄を探って、財布の中にちょうど1枚あった500円玉をその手のひらに乗せた。間嶋がついてこいと身振りで示したので歩き出した背を追うと、彼は通学に使っているのとはまた別のバス乗り場に向かうようだ。

(カラオケにでも行くのか?)

 盛岡駅の東口からはいくつもの路線バスが発着する。

 その中でも奥州街道を北に向かうバスに無言で乗り込んだ間嶋は、混雑している車内を苦にもせず、両手をポケットに突っ込んだままだった。

 とにかく言葉が足りないこの男と意志疎通することの難しさに杷は内心でため息をついた。

「あ、っと」

 そちらに気を取られていたら、うっかりバスのステップに足をぶつけてしまった。

改めて昇り直し、空いていたつり革に手を伸ばす。

「さっきの話」

 小声で話しかけると、間嶋は視線だけをこちらに寄越した。

「俺、フィギュアやってる知り合いに言われたことがあるんだけどさ。お前はフィギュアに愛されてるって。それと同じような意味?」

「…………」

 沈黙はそれほど長い間ではなかった。

 バスが赤信号で停まる微かな振動をやり過ごして、間嶋が唇を開いた。

「〝魔性〟だっけ? ネットで調べたら動画が出て来た」

「メディアは何でも派手にしたがるんだよ、そういうの。こっちは恥ずかしいったらありゃしない」

 杷は大げさに肩を竦めてみせる。

 ああいう煽りは、本人が一番こそばゆいものだ。

(でも、そういえば……天樹はそれを喜んで演じてた)

 自由闊達で明るい天樹を〝天衣無縫〟。物憂げで蠱惑的コケティッシュな演技が得意だった杷を〝魔性〟と評したのは、ふたりのライバル関係をより際立たせて対決を盛り上げるための戦略に他ならない。

 天樹はそれに乗ったのだ。

 実際、天樹の演技は見る者を非常に意識したもので、観客席に向かってウインクを送ると必ずはしゃいだ声援が上がるのを杷は感心して観ていたものだ。彼が滑ると、バレエ用の舞曲であるはずのボレロがまるで勇壮な英雄行進曲にでも聞こえてくるかのようだった。

「――あの時アイスリンクで」

 間嶋が急に喋り始めたので、杷ははっとして回想を断ち切った。

「え? ああ」

「本当に誰でもよかったんだよ。運動神経が良くて、文句言わずに練習してこっちの言う通りに投げられそうな奴なら」

「いや、それは誰でもいいとは言わないんじゃ……」

「そうか? 最低限だろ」

「お前、理想が高いってよく言われない?」

 間嶋が手を伸ばして、バスの降車ボタンを押した。電子音とアナウンスが流れ、上堂と書かれたバス停に停車する。

「もっと周りに合わせろとは言われる」

 先にバスを降りた間嶋の肩が、凍えるようにそびやかされた。昨夜も雪が降って、除雪された雪の層が道路脇に壁となって積み上げられている。

「で? 話の続きは? 誰でもよかったのにどうしたんだよ」

 間嶋の後を追って道路に降り立つと、少し歩いた先に赤い門構えの大きな建物が見えてきた。24時間営業の漫画喫茶にアミューズメント施設を併設したチェーン店舗だ。

「……ああ」

 間嶋は思い出したように相槌を打った。

「その時の俺は誰でもいいから声をかけるつもりだったのに、お前を見たらこいつしかいないって思った。そういう、周りを動かす力を持ってるってことだよ」

 2人分の受付を済ませた間嶋は、ボーリングやダーツなどが遊べるゲームフロアに向かった。中は暖房が効いていて暑いくらいだ。杷はマフラーを解いて、脱いだ上着と一緒に壁際に置いてあった椅子の背に掛けた。

「ビリヤード?」

 フロアには緑色のラシャを敷いたテーブルが並び、奥にはダーツ、端にはスロットらしき台が見える。間嶋は椅子の上に鞄とスヌードを置き、杷と同じように上着を脱いだ。中に着ていたニットとシャツの袖をまとめて捲り上げる。

「俺はこれやってるけど、お前は好きに漫画でも読んでれば? 料金は共通だから。1時間したら帰る」

「えっと……じゃあ、そこのドリンクも飲み放題でいいわけ」

 どうぞご自由に、と間嶋が頷くので、杷はドリンクバーでアイスティーを淹れて席に戻った。

 小気味良い音がして、間嶋のブレイクしたボールがころころとテーブルを錯綜する。何度かクッションに当たって跳ね返った後で、幾つかがポケットへと吸い込まれるように転がり落ちていった。

 杷はストローを口元へ寄せながら、しばらくの間、ボールがぶつかりあう硬質でリズミカルな音に耳を傾けていた。

「それってやっぱり、カーリングの練習の一環?」

 間嶋はキューの先をチョークに押し付けながら、こちらを見もせずに言った。

「話しかけるなよ」

「なんで1人でするんだ。無田とか誘えばいいのに」

 構わず杷が続けると、あしらうような答えが返ってくる。

「1人の方が気楽だから」

「じゃあなんで4人も必要なカーリングなんかをやってるんだよ」

 コッ、と手球の弾かれる音の後に、的球が連鎖してぶつかる軽やかな音が響いた。まず最初に当たった球が落ち、続けて2つめが時間差でポケットに消えていく。

「よだかの星」

「え?」

 手球を突く角度を変えるために、間嶋がテーブルを回り込んだ。

「知らないのか、宮沢賢治の童話」

「…………」

 杷が笑ってごまかすと、彼は呆れたように説明した。

「他の鳥から嫌われてたみにくいよだかっていう鳥が、飛び立った空の果てで星の光になる話だよ」

「ああ」

 言われてみると、どこかで聞いたことはあるような気がした。

 間嶋は続けて球を搗いた。

「最初から星になりたくて飛んだわけじゃない。地上から遠い、空の彼方にいる太陽や一等星、それらの傍へ連れて行ってほしかったんだ。だが、そこでもよだかは拒まれる。だからただ1羽で飛び続け、しまいには自分自身が燃える星そのものになった」

「……それで?」

「終わりだよ」

「いや、だからそれがカーリングをやってることとどう繋がるんだよ」

 ポケットに落ちた球を拾い上げ、間嶋はそっけなく言った。

「わからないならいい」

「ヒントは?」

 杷は逆向きに座った椅子の背に腕を乗せ、ぎしりと揺らす。

「――俺はよだかになれない」

 その台詞は、やけに印象的に聞こえた。

「…………」

 何言ってるんだろうこいつ、と杷はまじまじと間嶋を見つめる。

「それがヒント?」

「そう」

 間嶋はいつも通りのすました顔で、新しく球を置き直している。

 杷はお手上げだとばかりに肩を竦めて席を立ち、答えを当てることを諦めて備え付けのキューへと手を伸ばした。

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