勇気

 その日の晩、ヒロは酒場にて、日向ひゅうがと共に酒を飲んでいた。日向は四十代半ばで、白髪がかったオールバックの似合う男だ。

「浮かない顔だな……ヒロ。上司と酒を飲むのに気が乗らないのなら、断っても良かったのだぞ」

「い、いや……そういうわけでは……」

「気にするな。私も今は企業の社長だが、平社員の気持ちを理解できないわけではない。上司からの誘いには、圧があるのだろう? しかし私は、君たち社員の気持ちを尊重するつもりでいる。本音を話してみろ……ヒロ」

 何やら彼は、古風な考えに縛られない経営者らしい。ヒロは赤ワインを一口飲み、彼に訊ねる。

「社長……正義って、一体何なのでしょう。俺のしていることは、間違っているのでしょうか」

 仕事を淡々とこなしていた一方で、ヒロには迷いがある。そして日向は、そのことをよく理解している。

「ヒロ……君がウィザードで、本当に良かったと思う。私は君を誇りに思っているよ」

「社長……?」

「迷いがあるということは、己の正しさを過信していないということだ。己を信じる勇気と同様、己を疑う勇気もまた人間の要だよ」

 彼は社長として、ヒロの心構えを高く買っていた。それでもなお、ヒロはどこか儚い愛想笑いを浮かべるばかりだ。

「ありがとうございます。しかし、己を許してさえいなければ、何をやっても良い……という話にはならないと思うのです」

「ヒロ……君は、君自身を許すべきだ。誰かが手を汚さなければならない現実から、君は一度たりとも逃げたことがない。無論、私は君の『己を疑う勇気』を買っている。しかし君は、もう少し己を信じた方が良いだろう」

「はい……」

 依然として、彼の表情は曇ったままだ。しかし日向には、そんな彼に愛想を尽かすつもりなど毛頭ない。

「迷わなくても良いが、迷うことを無理にやめる必要もない。それが君の感情であれば、偽る必要はないのだ。そしてどうしても己の感情に嘘をつく必要が出てきたら、すぐにでも有給休暇を取りなさい」

「良いのですか?」

「元より私は、消去法でヴィランを殺めることを選んだ身だ。正義を目指した妥協点なんかで、君の心を壊したくはない。ヒロ……君は私にとって、大切な社員の一人だ」

 そう語った日向は、ヒロに微笑みを見せた。



 *



 翌日、ヒロは街中を宛もなく練り歩いていた。彼の脳裏に浮かぶのは、つい昨日の出来事だ。彼があの時殺したヴィランはかつて、他の誰かに愛されていた人間だったのだ。それがウィザードとヴィランの宿命と知っていてもなお、ヒロは煮え切らない想いを抱えるばかりであった。


 その時、彼の背後から少女の声がした。

「あの時のお兄さんッスよね?」

 ヒロはその声のした方へと振り向いた。そこに立っていたのは、昨日彼の目の前で転んだ少女である。

「君は……」

「昨日は助けてくれて、本当にありがとッス! 感謝してもしきれねぇッス!」

 何やらウィザードがもたらすものは、悲劇だけではないらしい。現に、この少女はヒロのおかげで生き永らえたのだ。それでもヒロの中に、たった一つの疑問が残る。


「例え殺されたのが君にとって親しい人間であったとしても、君は俺に感謝していたか?」


 そんな疑問を口にしたヒロは、どことなく寂しげな顔をしていた。そんな彼に対し、少女は屈託のない笑みを向ける。

「それは難しい質問ッスね。でも少なくとも、それでお兄さんを責めることは出来ねぇッス。難しいことはよくわかんねぇッスけど、ウチらのためにヴィランを倒している人間が傷つかなきゃならねぇってのはおかしな話ッスよ!」

 それが彼女の答えだ。ヒロは愛想笑いを浮かべ、彼女に背を向ける。

「……すまない。妙な質問をしてしまったな」

 そう言い残した彼は、一度も振り返ることなく、その場を去っていった。

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