貢ぎ女の存在定義

@tukeogoma

第1話

推しがいれば、私の人生は輝いていた。

『夏はキリッと、男もキリッと! キリシマソーダは爽快炭酸の新定番!』

 清純派アイドルのキリシマ君が、ヤシの木が並ぶ浜辺を背景に笑う。手には透明で黄色い炭酸飲料を持ち、真っ白な歯を見せている。大学二年生の初夏、私はたった五秒のCMに出て来たこの男性に、高圧電流を流されたような一目ぼれをした。

 こんなことはよく聞く話だ。今時はみんな、好きな芸能人やキャラクターのことを推しと呼ぶ。同世代の女友達は、推しという生きがいをほぼ全員が持っていた。

 私も大学在学中は卒業も危うくなるほどバイトに明け暮れ、キリシマ君の所属するアイドルユニット『KEEN』のライブがあれば毎日通い詰めた。卒業後も生活スタイルはほとんど変わらなかった。

 平日は新卒の会社員として働き、休日はキリシマ君が出演するTV番組やSNSを見てリフレッシュをする。ありきたりだが満たされる生活が続いたある日、新しい雷が落ちて来た。

 キリシマ君の祖父はそこそこ有名な画家だった。その繋がりで、キリシマ君は今をときめく世界的画家に描かれたのだ。その販売価格は税込で三百万円。この話題を初めてネットニュースで見た時、私は値段の高さに笑った。けれども絵の詳細がネット上で公開されると、私は笑顔を失った。

 画はモノクロで描かれた、水墨画のようなキリシマ君の憂い顔だった。この世は無常だと言いたげな憂い顔が、いつもたたえている微笑みとは対照的に描かれている。

 この絵を見た瞬間、画面上の電子が私に稲妻を放ち、会社の食堂で食べていたカレーライスにスマートフォンを落とさせた。落としてなお、私は動けなくなっていた。きっとその時に、私の正気は地面に放電されていた。気がつけば、この絵は自分のものだと確信していた。

 昼食後すぐに仮病を使い午後休みを取り、それから職場に近いネットカフェに飛び込んだ。詳しく調べると絵は抽選で一人に販売され、抽選結果は一年後に通達されるとのことだった。三百万円は口座から直接引き落としで、クレジットカード決済は不可。つまりローンは不可だ。私は今年の春に大学を卒業したばかりで、毎月の給料は手取りで十八万円ほどしかない。

 それなのに就職と同時に東京の外れで一人暮らしを始め、現在の貯金は三万円以下だ。グッズを買い過ぎてクレジットカードの支払いを五ヶ月延滞した過去があるため、ブラックリスト入りしていて借金もできない。

 そんな状態で、たった一年で貯金を百倍に増やすなど不可能だと思った。親に借金を頼むのも無理だ。家にはまだ大学生一年生の弟がいて学費がかかる。

 それなのに、私は諦めを感じていなかった。申し込みのネットフォーラムをすでに開いており、いつでもパソコンから抽選に参加できる状態だった。

 これはヤバイと思った。何がヤバイのか、言語化はできなかった。その時の私は、誰かに私を止めて欲しかった。そのためにSNS上でサカナちゃんというアカウントにダイレクトメッセージを送った。

「今日の夜って空いてる? キリシマ君のあの絵について語らない?」

 同じキリシマ君推しであるサカナちゃんは、奇遇にも同い年で勤め先も近かった。サカナちゃんはハンドルネームで、本名は知らない。推しを語り合うのに互いの素性は不要で、どこに住んでいるかも知らなかった。ちなみに私はアキコという仮名で呼ばれていた。

 すぐに定時後に池袋で合流しようとメッセージが返って来た。夕方六時、私たちは池袋の東口にあるチェーン居酒屋で落ち合った。その瞬間、まるで生き別れていた姉妹のように手を取り合った。

「キリシマ君の絵、見た瞬間ゾクっと来た! 値段にはその倍、ゾクゾクしちゃった!」

 まずはサカナちゃんが叫んだ。

「分かる! 三百万って、すご過ぎるよ!」

 サカナちゃんは最初の私と同じように大笑いしていたが、私は笑みを殺した驚きの顔で答えた。ひとまず腰を下ろし、互いにソフトドリンクを注文する。

「すごいよね、キリシマ君って。アイドルとしても十年に一度の逸材って言われて、有名な画家に絵も描いてもらえて。私たちより存在価値が何段階も上で、まるで神様か天使だよ。一生拝んでいけちゃう」

 サカナちゃんの方が推しを褒め称えるのは上手だった。私は形にならない気持ちを言葉にしてもらえて、文字通り拍手を送った。

「それ、一生拝んでいたい。実はあの絵画の抽選に応募しようと思ってて……」

 私がそう口にした刹那、サカナちゃんは硬直した。

「ごめん、それって本気なやつ?」

「……」

 無言が答えになった。

「出過ぎた発言かもしれないけど、アキコちゃんってそんなにリッチなの?」

「いや全然。貯金も頼るアテも今のところはない」

 私は話しながら、自分がどれほど愚かなことをしようとしているのかを感じた。

「……おせっかいかもしれないけど、手元にないならよしなよ。あの絵は素敵だけど、私たち庶民に手が出せるものじゃないって」

「そう、そうなの。分かってるけど、自分を止められなくて……」

 私は二杯目に焼酎を頼み一気に飲み干した。

「あの絵はもう、私が買わなきゃいけないって思ってる自分が怖い」

 サカナちゃんは私の隣に座り、同じ焼酎を頼んだ。

「大丈夫、一晩飲めば落ち着くって。これ飲んだらカラオケで『KEEN』の『Be keen to』を歌いまくろう」

 その夜のサカナちゃんは本当に始発まで付き合ってくれて、私は泥酔していたためにネットカフェに舞い戻った。

 土曜日の夕方五時、私はようやく自宅に戻った。割れそうな頭と猛烈な吐き気を抱えてなお、あの絵のことを諦めていなかった。お金が足りないなら稼げばいい。私の悪魔はささやき続けていた。とうとう日曜の朝、私は悪魔の仲間入りを決意した。

 サカナちゃんは私を心配して、推し活と呼ばれるグッズ購入で借金を背負い破産する人々のことをSNS上で教えてくれた。しかし私が諦めていないことを改めて伝えると、アカウントをブロックされてしまった。金銭面で頼ったりしないのにと思いつつ、ブロックされたアカウントからはログアウトした。どうせ、今の自分は誰にも理解されないだろうと思ったからだ。

 その後すぐに、絵画の購入抽選に応募した。誰に言っても止められて当然なのは分かっている。私は今、完全に狂っている。

 狂っている勢いで、私は最短でお金を稼ぐ方法を夜通し調べた。今の私はしがない事務職だ。ボーナスは出てたった一ヶ月分しかない。手取りは十八万円あるが、家賃などの生活費で八割以上消えてしまう。そもそも一円たりとも使わないとしても、全く稼ぎは足りなかった。

 その現状を受けて、私はまずは生活費を折半できる同居人を探すことにした。生活費を折半できれば、今より七万円は多く貯められる。十二ヶ月あれば八四万円にもなる。

 その次に時給の高い夜の仕事を探した。残念ながら、私には高級キャバクラで働けるほどの輝く容姿やスタイルはなかった。不美人ではないが今時の顔ではないと指摘され、ことごとく高級クラブの面接に落ちた。高校生時代にも、歌人の与謝野晶子に似ているとよく言われたものだ。自分ではそこまで似ているとは思わないが、与謝野晶子のことは好きだったのでこのあだ名は気に入っていた。今のハンドルネームもこのあだ名が由来だ。

 八つのクラブで断られてもなお、諦めず片っ端からクラブやラウンジに面接を申し込んだ。サカナちゃんにブロックされた日から一週間後、幸いにも職場から近い小さなクラブで雇ってもらえることになった。五十代のママは意外にも「ライザー」だった。「ライザー」は『KEEN』ファンの自称のことだ。しかしキリシマ君推しではなく、キリシマ君の相棒的存在のミヤサカ君推しだった。

 志望動機を聞かれた際、私は包み隠さず話した。それが功をなして、ママは今日の夜から働きなさいと言ってくれた。ママはお酒と煙草で声が掠れきっていたが、見た目は小奇麗な料理屋の女将といった雰囲気で気品があった。

 ママは私の働く動機が突拍子もない理由なので、お客には留学のために稼いでいると言った方いいとアドバイスもくれた。

「そうだ、源氏名はどうする?」

 クラブの裏にある控え室で、レンタルのドレスを試着している最中にママが尋ねた。

「アキコがいいです」

「アキコ? 二十三歳にしては渋いわね。どうしてアキコなの?」

「与謝野晶子のアキコなんです。顔が似ていて、高校生の時のあだ名だったのもあるんですけど……授業で生きざまを聞いた時、こうなりたいと感じたんです」

 鏡の中の自分を見ながら答える。私は小説を読むのも苦手だが、与謝野晶子だけは唯一興味を持てた文化人だった。

「晶子の旦那さんは同じ歌人だったんですけど、全然稼げてなくて。でもそれを責めたりしないで、心から愛して、十一人の子どもと一緒に養ってあげてたんです。その上、創作の足しになるように自分の歌の稼ぎでヨーロッパへの渡航費を工面してあげたこともあったそうです。そこまで誰かを愛し抜く人って、かっこいいなって」

「知らなかったわ。そんなにも愛を貫くって、狂気みたいなものよね」

 ママは自分にも思うところがあったのか、私のドレスのファスナーを上げながらしみじみと言った。

「あなた、寸胴過ぎてドレスはダメね。いっそ着物がいいわ。その方が気品が出る」

 ママはそう言って、キリシマ君のイメージカラーである黄色い着物を貸してくれた。

 そして同居人探しも同時に解決した。ホステスの同僚、ミサキも生活費が苦しく同居人を探していたのだ。ミサキは小柄であどけない雰囲気で、まだ二十歳になったばかりらしい。顔立ちも悪くなく愛想もいいが、常におどおどしている女の子だった。

 私はとんとん拍子にことが進むので、反動で不安になった。誰も私を引き留めない、あとに引けない。そんな気持ちが背中を冷やす。それでもなお、諦めの方向は全く見ていなかった。

「初めまして、アキコです。お隣失礼いたします」

 その日の夜、私は常連だという恰幅のいい中年サラリーマンの隣に座った。

「アキコちゃんは今日が初めてなの。よろしくね」

 ママが簡単に挨拶を足してくれる。

「アキコちゃん? 失礼だけど君、いくつ?」

「二十三です」

「嘘ォ。貫禄があり過ぎて、アラサーかと思ったよ」

 タヌキのようなサラリーマンは笑い、ビールを飲み干す。私は慌てて瓶から中身を足すも、泡まみれにしてしまった。

「あはは、その注ぎ方はたしかに若いね」

 若干失礼な口ぶりだが、気のいいお客さんだった。

 無論、夜の仕事は決して優しいお客ばかりではない。不美人だの、顔が古いだの、勤務すればするほど言われ放題だった。容姿を否定されるのに、身体を触られたり、性的な発言をされたりなどのセクハラも沢山あった。リアルな男性と触れ合った経験がほとんどないだけ、最初のうちは店の控え室で不快感と怒りに泣いた夜もあった。

 しかし止めるワケにはいかなかった。クラブでの基本の日給は一万円。同伴できればプラス二万円。マックスで三万円は稼げる計算だった。

 クラブに毎月十五日出勤したとして、基本給は十五万円。同伴のノルマは五件で、プラス十万円になる計算だ。トータルで二十五万円、経費は五万円ほどかかるとして毎月二十万円は貯められる。生活費も切り詰めれば、何とか一年後に三百万円が貯まる算段だった。

 私は毎日お客さんにメッセージを送り、同伴に繋がる努力なら何でもした。それなのに同伴のノルマはいつもギリギリだった。

 ホステス歴が三ヶ月目に突入した時、ミサキの指名客と一緒に飲むことになった。だがこの指名客は酒癖も性格も最悪で、口の端からビールの泡を吹きながら延々と同じ愚痴を言い続けるタイプだった。

「アキコちゃんもさあ、もっと稼げる方法あると思うでしょ? AV女優とかさ、ミサキにもやり方を考えろって言ってるんだけど、聞かなくてさ」

 この発言にミサキの笑顔が引きつった。要は稼ぎたいなら身体を売れと言いたいのだ。

「ミサキは大学に行きたくて五百万貯めたいんだろ? アキコちゃん留学費用が三百万円欲しい。そのためなら何でもできるんだろ?」

「何でもできますけど、そのために自分を殺したら意味ないじゃないですか」

 私は静かに怒った。そこからは店を巻き込んでの大喧嘩になった。喧嘩は私たちが煽ったワケではなく、二個隣のテーブルに座っていたミサキの別の指名客が激怒したのだ。

 ミサキは親に愛されなかったために壮絶な虐待の過去を持っていて、父親に性的暴行を受けたこともあるという。それを知っている指名客だったので、かなりの剣幕だった。その指名客は、その時すでにミサキの彼氏だったのだろう。

 最終的には客同士の喧嘩とはいえ、私たちは中心人物ということで営業後に罰金三万円を課された。私は不服だったが、ミサキは喜んで指名客とアフターへ消えた。

「アキコ、今までありがとう!」

 次の日、その笑顔とともに同居生活が崩壊した。店を辞めて客の男と暮らすらしい。

「困るよ!」

 私は荷造りするミサキに叫んだが、彼女が振り返ることはなかった。

 生活費は急に七万円増えた。クラブの出勤日数を増やしたかったが、昼職も遅刻に欠勤とクビ寸前で無理だった。

 実家に帰れば生活費はかなり楽になるが、実家は盛岡にある。仮に盛岡に帰ってホステスに専念しても、相場の違いから今の半分しか稼げない。そもそも父親に激怒されて、部屋に軟禁されてもおかしくない。

「どうしよう」

 私はキリシマ君のアクリルスタンドを握りしめながら、アパートのベランダでラークを吸った。お金がもったいないので滅多に煙草は吸わないのだが、その時は何かに頼りたくて、我慢ができなかった。お酒は普段の仕事のこともあり、飲む気にはなれなかった。

 重く甘いタールを肺いっぱいに吸い込み、キリシマ君を見る。キリシマ君は爽やかに笑っている。肺はずっしり重くなり、ぐらぐらと頭が回ってくる。

 三ヶ月で、たった五十万円しか貯められていない。この調子では全く足りない。私のあの絵が奪われてしまう。

 絵はそもそも抽選で、私に当たるとは誰も言っていない。それなのに私は焦燥感と絶望感の狭間で、取られたくないと心の中で叫んでいた。

 一晩中ベランダに座り込み、ラークの空き箱を作って朝日を見た。昼職に行かなければいけない。顔色が悪いのを化粧でごまかし、遅刻するよりはマシだと始発で家を出た。

 始発の電車は空いていた。前の夜に飲み明かしたのであろう老若男女がちらほらいるだけだった。残暑も終わりかけの季節で、車内は退廃的な雰囲気だった。ふと、与謝野晶子ならどんな短歌を読むだろうかと思った。燃えるような恋をし、自身の足で駆け抜けきった彼女なら。

 この狂気に、どれほど美しい情熱のエールをかけてくれるだろうか。考えているうちに降りる駅に着き、仕事中もずっと自分に相応しい短歌のことを考えていた。

 昼休憩中にスマートフォンで与謝野晶子の短歌をいくら調べても、しっくりくる短歌は見つからなかった。気がつけば昼職の定時が過ぎ、クラブの近場のカフェで営業が始まる夜八時を待っていた。

 昼職では勤務態度が悪いと同僚に全員に嫌われきっているような状態なのに。アルコールの飲み過ぎで生理も止まっているのに。同居人もいなくなって、抽選に間に合わないのは確実なのに。身体を売るほどの覚悟もないのに。どうして。どうして私は諦められないのだろう。諦めればすぐ楽になれるのに。

 心の声は止まないのに、私はカフェを出てクラブの控え室で着物を身にまとい化粧を熟した。担当のお客さんに、ビールと泡が黄金比で入ったジョッキを差し出した。新規のお客に評判の焼き肉屋に行ってみないかと同伴の営業をかけた。閉店間際、泥酔した客をママとタクシーに乗せていた。

 与謝野晶子の激励がなくとも、自分自身が呆れていようと、私は迷いがなかった。自分がどういう人間なのか、二十三年の人生の中でようやく気がついた。

 その晩は何も考えず眠り、リセットされた頭で住まいの今後を考えた。結果として、シェアハウスへの引っ越しを決めた。初期費用は多少かかるが、ルームメイトが去り生活費が増える恐怖に怯えずに済む。すぐに手続きをし、個室料四万円の格安部屋に決まった。光熱費等も込みで、ルームシェアするよりも生活費は二万円安くなった。必要のない衣服や家財を売ると、引っ越し費用は回収できてしまった。

 引っ越しが終わった夜、私はキリシマ君がセンターを決める『Be keen to』を何度も繰り返し見て、久しぶりにSNSへキリシマ君を賛美する投稿を何十件と載せた。

「キリシマ君は私の生きがい」

「彼が笑ってくれれば、どんなに辛いことでも頑張れる」

「もし私が与謝野晶子だったら、彼への愛の短歌を一〇万首は作れる」

 言葉にするとありきたりで、いいねはつかない。それどころか連続投稿をうるさがられて、何人かフォローを外された。それでも気持ちが尽きるまで投稿を止めなかった。


「アキコさんって分かる? 同じキリシマ君推しの」

 私は同担であるユキミに尋ねた。ユキミというハンドルネームはアイスを餅で包んだお菓子が由来のらしいが、その名の通り彼女は色が白く豊満な体形だった。

 彼女とはアキコと絶縁した後に仲良くなった。ユキミはのんびりとした雰囲気だが、有名私立大を出ている年上のキャリアウーマンだった。

「分かるよ、フォローはしてないけど何度かタイムラインで見かけたことある。最近は見ないけど、何かあった?」

「半年前にキリシマ君の三百万円の絵画が出て、大騒ぎになったでしょ。誰が買えるんだってさ。その絵画を買うんだってさ」

「すごいね。そんなにお金持ちなんだ」

「違う違う、普通のOLだよ。でも本気の目でそう言っててさ。結構仲良くしてたんだけど、怖くなってブロックしちゃったんだよね。今頃どうしてるかなって」

「あー、たまにいるよね。借金してまでグッズ買うタイプだ」

「正直、そこまでするのは意味が分からないよね。推し活って息抜きにするものじゃない? 自分の身を破滅させちゃダメでしょ」

「だよね。身の丈に合わないって、分からないのかね」

 私たちは散々アキコをけなした。それなのに彼女の今が気になって、帰路の電車内で久しぶりに彼女のアカウントを見に行った。

「目標金額の三百万まであと半分! これなら間に合う!」

 その一文を見た時、私は強がりだと思った。あれからたった半年で、単なるOLが一五十万円も貯められるはずがない。私は強がりを哀れに思った。

 電車を降りて改札を出ると、三歳違いの妹である楓と偶然出会った。

「葵じゃん。いつもどのバスに乗ってるの?」

 妹は私の名前を呼び捨てにする。かなり生意気で喧嘩は絶えないが、何だかんだで仲は良かった。

「あと十五分後に出るやつ。楓も帰るの?」

「その反対、これからライブ観て来る」

「ほどほどにしなよ。バイト代安いんだから」

「うるさいなあ。葵だってキリシマ君に貢いでるくせに」

「血は争えないから言ってるの」

 私は楓が改札の中へ入るのを見送り、帰りのバスに乗った。ぼんやりと外を見ながら、楓の“貢ぐ”という言葉が胸に引っ掛かっていることに気がつく。私は推し活のために、貯金がない。彼氏もない。実家暮らしで生活費は大してかかっていないのに、いつも毎月カツカツだ。癒しのためだからと、今しか見ていない。

「結局は自分のためにやってることだから、いいじゃない」

 誰にも聞こえない声で、言い訳をした。その瞬間、ユキミと話した会話の一つ一つがすべてブーメランになって心に刺さった。私は真っ直ぐに目標に向かっているアキコが、怖くて羨ましかったのだと気がついた。

 

 絵画の抽選連絡が来るまで、一ヶ月を切った日のことだった。順調に貯金はできており、目標の三百万円まであと二十万円だった。今月を乗り切れば、私の絵は確実に手に入るはずだった。

「アキコさーん、聞こえますかー? 聞こえたら本名と生年月日を教えてくださーい!」

 そのはずだったのに、私は担架に乗せられて梅雨の雨に打たれていた。降り注ぐ雨が見えているのに、雫が顔に当たる感触は分からなかった。

「アルコールの飲み過ぎですか?」

 救急隊員のお兄さんが私ではない方を見る。

「いいえ、今日はまだ勤務前でお酒は飲んでないはずです。着替えをしている最中に突然倒れて……」

 クラブのママが答えている姿が見えるのに、声がだんだんと聞こえなくなってくる。私は視覚しか感じられない世界にいて、幽霊になった気分だった。

 次に気がついた時には、病室らしい真っ白な天井を見ていた。

「ご両親を呼んでください」

 担当医は詳しい病名を伝える前にそう言った。何となく、ただ事でないことは分かった。私は盛岡の両親を呼び、医師から詳しい説明を受けて貰った。母は病室に入るなり泣き崩れ、父は怒りと悲しみの狭間のような顔をしていた。私は病が重いことと、クラブで働いていたことがバレたのだろうと察した。

「辛いなら、困ってたなら、言ってくれたら良かったのに」

「そもそも水商売なんて、何を考えてるんだ。お前はそんなタイプじゃなかっただろう」

 二人は少しだけ私を責めたが、その後は私がステージ三の大腸ガンで、長期の入院が必要だということを教えてくれた。そして原因は飲酒の影響が大きいとのことだ。

 私はようやく、あの絵が自分から遠く離れて行ってしまったことが分かった。私はまた、視界しかない世界に引き戻された。両親が涙ながらに話しているのに、何も聞こえない。

 私はそんなに、悪いことをしたのだろうか。クラブのお客を騙すような接客はしていなかったのに。昼職の同僚には、かなりの迷惑をかけてしまったけれど。

 私は、私はただ必死で、キリシマ君から貰った生きる力を返そうとしただけなのに。

 涙は零れなかった。視界以外の感覚が消え失せて、あの絵だけが意識の中にあるだけだった。

 ふと、生きる目標を失ったのだと分かった。


「こちらが『KEEN』のキリシマさんの絵画ですね。当選してどのようなお気持ちですか、今西さん」

「すごく嬉しいです。私、キリシマ君のためだけに生きて来たので」

 私はテレビから聞こえて来た名前に、思わず掃除機をかけていた手を止めた。半年前まで同居していたアキコの推しの名前だと、ふと気がついた。彼女はたしかこの絵が欲しいがために同じクラブで働き始めた。

 今頃どうしているだろうか。ニュースに映った子はアキコとは別人で、色白でぽっちゃりとした体形の子だった。キャスターによると、彼女は高学歴のキャリアウーマンだそうだ。ふと、アキコの今が心配になった。

「どうした、芽衣。具合が良くないのか?」

「ああ、そうじゃないの。このキリシマって男の子、アキコが好きだったなって。それを思い出しただけ」

 私は今の夫と四ヶ月前に結婚し、お腹にいる子どもは三ヶ月になっていた。つわりはあるが、今日は動いていた方が楽だった。

「あの時一緒に座ってた子か。今は連絡取ってないのか?」

「ルームシェアしてたのに私が勝手にやめちゃったから、連絡しづらくて」

「俺のせいかな」

 優しい彼はバツが悪そうに言ったが、私は微笑んだ。

「私が決めたことだもの、私のせいよ」

 テレビに視線を戻すと、二十代半ばであろう女性は大事そうに絵を抱えていた。推しという存在は、どうしてこんなにも魔力があるのだろうか。

 同時に自分に振り向くはずのない男のために働くアキコを、愚かだと見なしたことを思い出した。貢ぐだけの行為を必死になってやっていると、内心軽蔑もしていた。それが彼女の幸せの在り方だったのだとも気づかず。

 私は半年前まで大学に行きたかった。普通という、恵まれた層に入りたかった。でも半年前に出会った夫と過ごすうちに、幸せの在り方が別にあることを知った。この人のためならば何でもやってあげたい。その気持ちの尊さに気がついた。

 きっと自分もキャリアウーマンからは愚かに見えるだろう。水商売で出会った客と結婚し、自分のキャリアを、未来を捨てたと。決してそんなことはないのに。

 私は掃除機をかけ終え、団地のベランダに繋がる窓を開け放す。初夏の爽やかな熱気が、部屋に吹き込んで来た。

 

 その日はバラエティ番組の収録で、砂浜に設置されたテント下で出番を待っていた。清純派アイドルから俳優になって久しく、番宣としてバラエティに出ることにも慣れていた。

 合図がかかり海の家風のセットに座ると、お笑い芸人の司会が適当に話題を振った。

「最近、ファンから一億円の世界一周旅行をプレゼントされたとか。ホンマですか?」

 すぐにあのファンのことだと気づく。姿を見たことはないが、しばしば事務所にとてつもなく高額なプレゼントを送って来ることで有名だった。

「まあ……ほぼ、本当ですね」

「ええっ⁉︎ 本当なんですか!」

 司会は大げさに驚く。正しくは九千万円の旅だったが、税金など諸々の理由で断った。

「もちろん受け取れませんよ。むしろ僕からお礼のビデオメッセージを送りました。そしたら代わりに仕事をくれるっておっしゃって。匿名の方なので、いつも神様と呼んでます」

 大変にありがたいが、畏怖もあるところが本当に神様に近かった。最初は三百万円で売られた絵画を買ったファンと同一人物だと思ったのだが、社長の調べによると別人らしい。

「渋谷の駅前で流れているCMのことですね。広告料が一週間で一千万円近くするのに、二ヶ月も流される予定だとか」

「ありがたいです、本当に」

 口ではそうは言うものの、信仰したことのない神様からの加護は迷惑と紙一重だ。このCM撮影が急遽決まったために三日ほど家に帰れなくなり、最も大事な大河ドラマの現場に遅刻するハメになった。

「ではさっそく、そのCMを見てみましょう」

 セットに吊るされていたディスプレイの映像が切り替わり、波の音が聞こえて来る。

『夏はキリッと、男もキリッと! キリシマソーダは爽快炭酸の新定番! おかげさまで十周年』

 ヤシの木が並ぶ浜辺を背景に、少し老けた自分が白い歯を見せて笑った。


【おわり】

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